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 Q. 「赦しなさい」と言われても、赦せなくて困っています。
 聖書には「7の70倍赦しなさい」と書いてあるそうですね。「だから、あなたに悪いことをした人も赦さなくてはなりません」と牧師先生から言われました。しかし、私にはどうしても赦すことができない人がいます。こんな私は地獄に落ちるんでしょうか。でも、たとえ地獄に落ちても結構です。私はその人を恨み続けます。どうして神様は加害者を赦せなどという残酷なことを要求なさるんでしょうか。神様は犯罪の被害者を愛してはくださらないのでしょうか。赦さなくてもよいという教えはないのでしょうか。急ぎませんから、いつかこの問いに対するお答えをQ&Aで書いてくださることをお願いします。

(いつご質問を受けたのかも思い出せないほど以前にメールで寄せられたご相談より)

 A. 赦さなくてもいいんですよ。
▼あなたの権利と自由に関すること

 まず結論から申し上げますが、あなたは、あなたに罪を犯した人を赦す必要はありません。また、世の中には安易に赦してはならない犯罪もあります。ですから、そんなに簡単にあなたを痛めつけた人を赦さないでください。
 あなたが誰かに何らかの被害を受けたのなら、まずあなたに必要なのは、あなたの味方になってくれる人に寄り添ってもらうことであり、支えになってもらことであり、癒され、治療され、慰められることではないでしょうか。それをまず求めて、周囲の人に応答してもらう権利があなたにはあります。
 加えて、あなたには、加害者を告発し、訴える権利があります。あなたの弁護人を求め、相談者を募り、法的な手段を取って、相手に責任を取らせる権利があります。
 まずはそういうことが先にあるのではないか、というのが私の考えです。心情的に赦すか赦さないかというのも、あなた自身に決める権利があるのであって、第三者から言われる筋合いのものではありません。あなたがクリスチャンで、その第三者が牧師や神父であったとしても同じことで、そんなことを言われるのは余計なお世話なのです。
 あなたが赦したいと思えば赦せばいいですし、赦したくなければ赦さなければいいのです。そういうことはあなたの自由なのです。

▼神の赦しと人の赦し

 神はすべての人を愛しておられます。そのことは間違いありません。そして、神は加害者のことも赦しておられます。しかし「だからあなたも赦さなくてはならない」ということとは全く別問題なのです。神が赦すということと、人が赦すということを混同している牧師さんはたくさんいます。しかし、この2つは全く別の事柄です。
 神はすべての人のすべての罪を赦しておられます。たとえ犯罪の加害者であろうとも、神の愛の外に漏れる人はいません。それは、加害者であっても神はその人の存在を否定することは決してせず、生命を奪うことも望んではおられないということです。
 罪を犯した人は、罪を犯さざるを得ない何らかの事情を抱えていたのかもしれませんし、傷を負っていたのかもしれませんし、病を抱えていたのかもしれませんし、意図的にあなたを痛めつけようと思ったわけではなかったかもしれませんし、あるいは残念ながら罪の意識や良心や配慮といった人間にとって大切なものが欠如している人間なのかもしれません。そういう様々な事情を神が知らないということはあり得ません。神は加害者の心を理解し、加害者の祈りに耳を傾け、加害者を慰めてくださるでしょう。
 しかし、そういうことまで人間である被害者が配慮しなければならないというのは間違っています。そんなことを被害者が考える必要はありません。赦しは神様に任せておけばよいのです。
 人間は人間社会の秩序として、加害者には悪を認めさせ、謝罪させ、賠償させ、賠償しきれない場合は生きている限り謝罪させ、処罰を受けさせ、教育を施して更生させる義務があります。教育を受けて更生させてもらえるというのは、加害者に人間として保障されるべき権利でしょう。そういう意味では、人間は裁きをきちんと受けることによってこそ赦しを得られる、という考え方も成り立ちます。
 でも、それは客観的になれる公的な第三者としての司法がやるべき仕事であって、被害者の義務ではありません。
 にもかかわらず、牧師があなたに対して「赦しなさい」と教えてくるのなら、それは「私は一方的に加害者の味方なのですよ」と宣言しているのと同じことですし、はっきり言ってセカンドレイプのようなものだと言えるでしょう。

▼復讐への戒め

 ただ、聖書を読む限り、復讐することは戒められているのではないかとは私は思っています。
 死刑肯定論者の方々の中には、「被害者の心情として、復讐したいという気持ちもある」、「復讐する権利はあるのではないか」、「その復讐を司法が代行しても良いのではないか」というご意見もあるいはあるのではないかと推察します。
 しかし、復讐は憎悪と怨嗟の連鎖を生みがちです。復讐心から報復を行うと、その報復が生んだ恨みは増幅され、報復の報復を招きがちです。そうやって互いの暴力がエスカレートし、文字通りの無法状態になってしまいます。
 意外に思われるかもしれませんが、「目には目を、歯には歯を」という言い回しでよく知られている旧約聖書の出エジプト記21章24節ですが、「やられたら、やり返せ」という復讐や報復を奨励している箇所ではありません。
 これは「同害報復法」とか「同害復讐法」あるいは「タリオ法」(タリオとはラテン語で「同じ」という意味)と呼ばれていますが、その主旨は「加害者が与えられる罰は被害と同じ程度でなければならない」ということなのです。そして、私的な報復を戒め、客観的な第三者が証人として立ち会った上で、加害者に罰が与えられていたという歴史的な解釈もなされています。私的な報復は先ほども述べたように、終わりのない暴力の拡大を招く恐れがあったからです。それでは社会の秩序がかえって崩壊してしまいます。
 ですから、社会の知恵として、復讐は許可されるべきではないと聖書の著者たちも考えたのでしょう。それは被害者の罪を不問に付すということではありません。加害者は人間社会の法に則って、厳重に罰を受けなければならないのです。そうすることで、被害者が赦す、赦さないにかかわらず、争いには終わりを与える、それが社会の秩序なのです。

▼七の七十倍を超える痛み

 新約聖書ではイエスが「七の七十倍までも赦しなさい」と言ったと、マタイによる福音書18章22節に書いてあります。この聖書の言葉を「490回も赦せと書いてある。すなわち無限に赦せと書いてあるのだ」と解釈するクリスチャンが多いようですが、私はなぜ「490回=無限大」なのかよく理解できません。確かに「490回くらい赦せ」と、格別に大きな寛容をイエスが教えてくれていることは間違いないと思いますが、人に傷つけられた、まして犯罪の被害を受けた傷の深さを回数で表すことができるでしょうか。
 むしろ、イエスは「兄弟が私に罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18.21)などと質問するペトロの人の受けた傷に対する認識不足に対して、半分からかい、半分呆れながら「七の七十倍だな」と答えたのでしょう。490回など大した数字ではありません。1年でも365日です。1年半近くも毎日被害の痛みや恐怖と闘って生きて、それで終わり、赦せますと言えるでしょうか。被害者の気持ちというのは、そんなに適当なものでしょうか。
 イエスが言っているのは、数字で表すことができるような程度の罪なら赦してあげたらいいんじゃないか、490回くらいなら赦しておやりよということなのです。要するに一般論的に寛大な人間でいなさいよということです。しかし、490などという小さな数字で数えきれないほどの大きな痛みについては、ここでは何も言っていません。イエスは決して「無限に」赦しなさいとは言っていません。しつこいようですが、「無限に」とは一言も書いていないのです。

▼安易に赦さないでください

 加害者が処罰を受け、謝罪し、賠償し、責任を取るという裁きを受けた上で、相当の時間が経過して、それから被害者が心情的に加害者を赦すかどうかも、それは被害者の勝手です。いつまでも赦せないということもあるでしょう。そういうありのままの心情も、もちろん神はご存知です。神は決してあなたを責めるなんてことはありません。
 敵を恨み、憎み続けるということは、自分の心の健康をもむしばみ、疲弊させてしまうのですが、だからと言って、問題が未解決のまま無理に「赦そう」と念じても、その無理がたたってますます心の健康は失われてしまいます。やはり、被害者に必要なのはそれ相当のケアと癒されるための時間なのであって、周囲の人間はそこに配慮しなくてはならないのです。そのためには加害者の謝罪や賠償も必要です。ましてや、被害者に赦しを強要するなどもってのほかです。
 繰り返しになりますが、神の赦しと人の赦しは別のものです。この2つを混同して、神と同じことを人に要求し、人の傷を更に広げて痛みを大きくすることに終始している牧師が多いのです。また、「赦さなければならないのだ」と必死に痛み耐えながら、負わなくてもよい重荷を負っている信徒の方もいらっしゃいます。
 しかし、あなたは赦さなくても良いのです。赦せる時が来て、赦せる気持ちになったら赦せば良いのです。
 いずれにしても加害者は責任を引き受けなくてはなりません。そうでないと、この世は無法状態になります。
 あなた自身のためだけではなく、世の中のためにも、安易に犯罪を赦してはなりません。
 また、加害者は裁きをきちんと受けることで、赦される権利も持つのです。きちんと裁くことが、その人への愛にもなりうるのです。
 ですから、どうか安易に赦さないでください。そして、どうか何よりも、あなたの心が守られますように。


〔初版:2020年1月18日〕

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