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 Q. 十字架って、あれ偶像礼拝じゃないんですか?

 質問者 「キリスト教は偶像礼拝を禁止しているって聞いたけど、マリアさんの像とか拝んでるよね」
 牧師  「うーん、マリアを拝んでるのはカトリックで、プロテスタントの教会にはマリアの像とかはないよ」
 質問者 「なんか言い訳っぽいな。だって、どこの教会でも十字架はかかってるじゃんか。あれも偶像じゃないの?」
 牧師  「ちがうよ」
 質問者 「どうして? じゃあ何で置いてあるの?」
 牧師  「なんでだろ。なくてもいいんだよね、きっと……」

(2000年12月に受けた質問より)

 A. ちがいます。でも像がなきゃいいってもんでもないんです。

  確かに聖書には、偶像礼拝はやめておきなさいと言っています。
 
 「あなたはいかなる像も造ってはならない。〔中略〕あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに使えたりしてはならない」(十戒(第2戒):出エジプト記20章4−5節)

  多くの教会に十字架がありますが、信徒は十字架を拝んでるわけではありません。
  十字架を見て、キリストが私のために死んでくれた、ということを「イメージする助け」として、そこに十字架があります。ですから教会堂に十字架がなくてはならないと決まっているわけではありませんし、じっさい掲げてない教会もあります。
  「偶像礼拝がなぜよくないのか」ということですが、それは単に木や金属などでできた固まりを拝むのは愚かだというだけではなくて、「無意識のうちに、神をある物や場所に閉じ込めたり、出したり引っ込めたりできる便利な存在にしてしまう」ことに問題があると、私は思っています。
  だから、仏教でも、仏像を拝むと偶像礼拝ですが、仏像に宿る仏の魂を拝むのは偶像礼拝だとは言い切れないはずです。観音さまは、観音さまを求める者のそばにおいでになるのであって、観音像の中にしか存在しないなんてことはないでしょう。マリア像だって同じ事です。
  逆に、像はなくても、「聖なる場所」とか「聖なる場所にふさわしい態度や服装」とか、そういうものに過剰にこだわり始めると、逆にその他の場所での態度がぞんざいになりがちなものです。聖なるものとそうでないものの区別にこだわる人は、礼拝堂を一歩出ると、態度がガラリと変わる偽善者になりさがる危険があるのです。それも一種の偶像礼拝と言えましょう。そういう人は、礼拝という時間とか、礼拝堂という場所を偶像にしているのです。
  もちろん、聖なる場所を持つことは、いいことですよ。でもそれは、「ここであらためて普段忘れている神さまのことを思い起こそう」、「ここはそういう特別な場所にしよう」という、心の持ち方のほうがより大切だということなのです。

  拝むのではなく、彫刻や絵画でおおいに神さまやイエスへのイメージをふくらませるのはよいことです。その際、できるだけいろんな異なるタイプのイメージに触れるのも意義のあることです。それだけ、個々人の個性に合わせて、いろんな形で神さまが現れうるのだということがわかりますから。
  像があってもなくても、かまわないのです。ほんとうは、神さまはいつでもどこでも、あなたが祈る時いつもあなたのそばにおられるのですから。

〔最終更新日:2001年2月15日〕

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