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 Q. イエスってホントにいたんですか?

 「イエスってホントにいたんですか?」
 「いたやろ。なんで?」
 「いや、だって、なんかインチキくさいじゃないですか。想像の産物っぽいし」
 「じゃあ、お釈迦さまは? 釈迦はホントにいたんか?」
 「お釈迦さまは本物ですよ!」
 「なんでやねん! それはおまえがお釈迦さんを信じてるだけやないか」
 「だって、イエスの母親が誰ともヤッテないのに生まれた、なんてゼッタイウソやないですか」
 「そしたら、お釈迦さんが脇の下から生まれたのはどうなるんや」
 「あれは、まあ、帝王切開みたいなもんでしょう」
 「ウソや。それはチガウで。あれは心臓の近くから生まれる、という意味がこめられた『神話化』なの! イエスが処女から生まれたというのも、その『神話化』の一種なの! 昔の偉人とか偉い人は、そうやって生まれたときの事情が神話化されることが多かったんよ」
 「で、結局、イエスはいたんですか? いないんですか?」
 「なぁ、君ら話聞いてる?」

(2003年5月9日、授業で思いっきり教室中から浴びせられた質問)
 A. いたみたいですよ。
  イエスなんか本当にいたの? とよく聞かれます。「証拠がない。写真もないし」と言われたこともあります。およそ2000年も前の人の写真があるはずないじゃないかと思うのですが、歴史の教科書などを見ると、たとえば同じような時代のローマ皇帝などの彫像などは残っているわけで、そういう彫像の写真なんかは載ってるわけで、たしかにこれはリアルですね。ああ、こんな人がいたんだなぁ、と。しかし、イエスという人の彫像も肖像画もない。
  くわえて、新約聖書には、奇跡で病気を治したとか、湖の上を歩いたとか、処女から生まれたとか、死んでからよみがえったとか、ほとんど非科学的でありえないような話ばかり書いてある。そもそも宗教の信者というのがうさんくさい。彼らはありもしないものを信じている、ちょっとヘンな集団だ。そんな連中が熱心に信じている様子を見るにつけ、ますますウソくさく感じられてしまう……それが一般大衆のホンネというものでしょう。
  だいいち、イエスというのはちゃんと世界史の教科書に載っている。その載っているとおりの文章で、クリスチャンが「ああ、そのとおりだよ」と言っておればいいものを、クリスチャンというのは「いや、本当のイエス様はこんなんじゃないんだ」とウンチクをたれたくなってしまうという困った傾向を持っている。そしてさらに困ったことに、クリスチャンによって「本当はイエスはこういうことを言いたかったのだ」「いや本当はこうだ」と論争まで始めてしまう人までいるから、結局あんたらは何を信じているの? 誰を信じているの? クリスチャンの間でもイエスのイメージが違うって、どういうこと? と言われても仕方がない。
  そういうわけで、イエスという人物が本当にいたのかどうか、たいへん疑わしい、と思われてしまうのであります。

  新約聖書にイエスのことが書かれているということでは納得できませんね。それは信者の書物ですから。信者がいくら「イエスは確かにおられた」と言っても、「そら、あんたは信じとるんやから、そう言うわなぁ」で流されてしまう。
  新約聖書以外に、イエスの存在を証するような、別の資料があればいいわけです。写真も肖像画も彫像も発見されていませんから、あとは文章で書かれたものですね。
  一応、古代の歴史家がイエスについて証言したものが2つあります。

(1)ヨセフス

  ユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(37頃-100)は、1世紀の終わりに、次のように記しています。
  
「彼がわれわれの最高位の人たちによって告発されると、ピラトは十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった人たちは、彼を愛することをやめなかった。……彼にちなんでキリスト教徒と呼ばれる族は、今日もなお消え失せてはいない」(『ユダヤ古代誌』18・63)
  ヨセフスという人は、ユダヤ人でローマ帝国に対する反乱戦争を戦い、ローマに投降して捕虜となった後、歴史家として執筆活動を始めた人です。そして上記は、そのような中立的な立場のユダヤ人歴史家の残した文章です。(ジョン・ドミニク・クロッサン(太田修司訳)『イエス−あるユダヤ人貧農の革命的生涯』新教出版社、1998、p.314参照)
  ユダヤ人(ユダヤ教徒)から見れば、イエスの信じる者の群れというは一種の異端でしたが、ユダヤ人の中でもイエス運動の群れに対しては、回心前のパウロのように、ユダヤ教への忠誠心に燃えて必死に弾圧・迫害に走り回る者もおれば、パウロの師匠ガマリエルのように、「神の御心に反していれば、自然に滅びるだろう」と模様眺めの姿勢をとる者など、その反応はさまざまでした。
  ヨセフスも、どちらかと言えば後者に属していたのかも知れません。キリスト教徒に対して、むきになって攻撃するでもなく、かといって同情や援護もするでもなく、この新しい宗教運動の動向をいくぶん客観的に観察している知識人だったのでしょう。そのような人が、キリスト教徒たちの言い伝えや資料をそのまま鵜呑みにして引用する、というのは考えにくい事です。
  また、さらにヨセフスは、他にイエスという同名の人物がナザレのイエスと同じような神殿冒涜罪で逮捕されたが、処刑をまぬがれたケースも記録しています。当時「イエス」は珍しい名前ではありませんでした。およそ紀元後62年と推定されていますが、「アナニアの子イエス」という人物が、神殿とエルサレムの終焉を予言して神殿の貴族階級に逮捕され、ピラトよりも後代のローマ総督アルビヌスの手に引き渡されたのですが、この総督はピラトと違い、アナニアの子イエスを狂人と見なして釈放したと、ヨセフスは記しています。(ゲルト・タイセン(大貫隆訳)『新約聖書』教文館、2003、p.36参照)
  ということは、ヨセフスはいくつかのユダヤ地方での、ローマ総督による裁判と処刑について、少なくとも数種類の情報を入手していたと考えられるわけで、そのなかのひとつに過ぎないナザレのイエスについての情報だけがキリスト教徒の証言を鵜呑みにした情報だ、というのも考えにくい。つまり、逆にそれ故に、後のキリスト教徒の源流となったナザレのイエスの処刑に関する情報は信用できるのではないか、すなわちナザレのイエスという人物は実在したのではないか、と考えられるわけです。


(2)タキトゥス

  また、ローマ帝国側からは、ローマの歴史家タキトゥスが、2世紀の初めに次のように報告しています。
  
「[キリスト教徒という]この呼び名のもととなったクリストゥス[キリスト]なる者は、ティベリウスの治世下に、総督ポンティウス・ピラトゥス[ポンティオ・ピラト]によって処刑されていた。この有害な迷信は、一時は阻止されていたが、再発し、その害悪の発生地ユダヤばかりでなく、世界中からおぞましいものや恥ずべきものがことごとく集まって流行するこの都にも、広がっていたのである」(『年代記』15・44)
  ここで注目すべきは、タキトゥスがイエスの復活なんて全然信じていないということです。事実として受け入れ難い事は、たいへん合理的に切って捨てている。彼にとっては、イエスの処刑によって、いったん解散してしまったイエスの弟子集団が、再びよみがえったイエスと出会い、新しい力を得て再び宣教を始めた、なんてことは頭にない。「イエスの処刑で有害な迷信がいったん阻止されたのに、また再発し始めた」という事実認識しかないわけです。しかし、そういうドライな物の見方をしている人の記録だからこそ、逆に、「『クリストゥス』という人間がいたらしい」という彼の報告は信用しうると考えられるのです。
  しかも、彼はイエスという名前は知らないようです。これは、彼が、クリスチャンたちが誰を信じているのか詳しく知らないことを示しています。ということは彼はクリスチャンたちの内部資料を入手していない可能性が高い。したがって彼は、「皇帝ティベリウスの治世下にピラトゥスによってクリストゥスという者が処刑されたらしく、それがあの有害な迷信のもとになっているらしい」という情報を、クリスチャンたち以外のルートから入手している可能性が高いのではないか。信者ではない人びとを伝って伝えられたのならば、それだけこの情報は信用できるのではないか、と考える事ができるわけです。(前掲書(クロッサン『イエス』)p.314参照)

(3)それでも疑いは残る

  ……と言っても、あくまで今まで述べた、1世紀から2世紀の歴史家、ヨセフスにしてもタキトゥスにしても、結局クリスチャンたちの言っていることをネタにして書いた可能性も完全に否定は出来ません。
  というのも、たとえば私の手許にいま高校の世界史の教科書があったりなんかしますが、この一冊を手にとっても、どれどれ……「ヘブライ人はもと遊牧民であったが、前1500年ごろパレスティナに定住し、一部はエジプトに移住した。しかし、そこでは新王国の圧政に耐えかね、モーゼに率いられてパレスティナに脱出した(「出エジプト)。」(山川出版社『詳説 世界史』より)とか、サラッと書いてある。
  でも、モーセが実在したかどうかはイエスよりも疑われているし、「遊牧民であったヘブライ人がエジプトに移住した」というのは、それは創世記37〜50章のヨセフ物語の伝説を真に受けるとそうなるけど、本当は人種的には雑多な、各地から集められてきていたエジプトの奴隷たち(そりゃあもちろんパレスチナから来ている者も混じっていはいただろうけど)が、脱出に成功し、他のさまざまな部族とも合流して、やがてパレスチナでイスラエル部族連合を結成し、そして、「我々はもともと先祖代々この地の持ち主なのだ」という事を正当化したいために、ヘブライ人の先祖ヨセフが、パレスチナから事情があってエジプトに下ったという物語を練っていった……とも考えられているのです。
  そうなると、この高校教科書は、歴史神学者よりも信仰者の信仰告白のほうを、学問的であるはずの教科書の文面に取り込んでいることになります。
  同様に、モーセの記事のあと、この教科書では……「前1000年ごろヘブライ人の国家は王政となり、ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとに栄えたが、ソロモン王の死後、国は北のイスラエルと南のユダに分裂した」(同『詳説 世界史』より)と書いてあります。
  これにしても、やっぱり旧約聖書に書いてある民族の理想化された歴史の丸写しです。いまはクリスチャンの旧約聖書学者でも「そもそも統一王国なんてなかったのかも知れないね。北と南は最初から一致できないままだったのかも知れない」なんて言ってる時代なのです。
  というわけで、現在使われている教科書でも、歴史的考察の結果よりは、信者の信仰告白のほうを書いている実例もあるわけですから、古代の歴史家だって同じようなことをやっている可能性がないとはいえません。
  そうなると
、さっきのヨセフスやタキトゥスにしても、彼ら自身が信者ではないからと言って、彼らが入手している情報は信者か語っている内容と同じである可能性もあるのです。
  やれやれ、また逆戻りですね(笑)。

(4)おそらく実在した、旅の僧イエス

  しかし、そうは言っても、たとえば先の(3)であげたモーセの例にしても、「モーセ」という具体的な人物が存在したかどうかがハッキリしないまでも、どうやらエジプトを脱出したグループがいて、そのグループはエジプトの多神教の環境の中で、唯一の神を選んで信じ、脱出に成功したことを神の救いであると信じ、海が割れたり、火の柱が導いたり、といった神話を考え出した人々がいる、そのリーダーとなった伝説的な英雄的人物がいたことは考えられるわけです。つまり、モーセのモデルとなった人物です。それなしには、このような脱出と移住が実施できるとは考えにくいと思います。
  同じようにイエスについても、ガリラヤの辺境地域から身を起こし、各地を遍歴して、最終的にエルサレムの都で処刑された一人の人物の生涯が全部フィクションであったというのは考えにくいのではないでしょうか。
  ペトロら初期のイエス運動のメンバーたちが、エルサレムで教えを説き始めた時、その教えの内容は、ついこの前、城外の刑場で十字架につけられて死んだ男の教えなのだ、と告白するのは勇気が必要だったのではないでしょうか。
「いかなる宗教的グループと言えども、自分たちの救済者を訳もないのに、十字架上で屈辱の死を遂げた犯罪者に仕立て上げはしない」(タイセン、前掲書、p.37)
  またそれ以上に、「十字架で処刑された『あの男』(イエス)だな」という、エルサレムの人々の共通理解がなければ、エルサレムでイエスの弟子たちが原始キリスト教会と後に呼ばれたグループを立ち上げて宣教を始めても、まったくの茶番として人々に相手にもされなかったのではないでしょうか。
  「イエスは十字架に、わたしたちの身代わりとなってかかられたのだ」と語ったところで、「イエスぅ? 誰や、それ?」と言われては元も子もないでしょう。
  それに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネなどの福音書作家たちは、それぞれ自分の福音書を書くときに、それ以前から伝わってきたはずの語録集やエピソード集などの情報を使っていたと言われていますが、それが一応、「イエス」という人物の物語である、ということで統一されている。それも4つの福音書だけでなく、かなり広範囲にわたってさまざまな福音書が本当は存在しているにもかかわらず、統一されている。
  また、
それらの情報は、都エルサレムから辺境の地ガリラヤに至るまで、各々の地域と結びついた伝承として残されている。つまり、各地を旅して回って教えを説いた一人の行脚者がいたという記憶が、各地に言い伝えとして残っている可能性がある、ということです。そういう旅の宗教者の話は日本でも各地に残っており、そこで人びとの病気を治したとか、死んで生き返ったとか、そういったエピソードは必ずしも事実ではないだろうけれども、しかし、「その人」が「この地」を訪れたことは確からしい、ということは予想させるわけです。
  したがって、そういう事を考えて行くと、「イエスのモデル」となるべき人物、いや、これだけ名前がはっきりと広い範囲で正確に知れているのですから、その男性の名前は確かに「イエス」なのでしょう、そのイエスが、各地を旅しながら、話し、癒し、祈り、論争しながら、旅を続けていった……。そういう人がいた、ということを否定するのも、これまた無理があるのではないかなと思うのです。(2003年5月21日記)

〔最終更新日:2003年5月21日〕

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