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 Q. 牧師さんどうしって、どうしてあんなに仲が悪いんですか?

 質問者 「牧師言うたら、いつも柔和で、人と争わず、と思ってたけれども、実態はぜんぜん違うんやな」
 牧師  「え? どうしてですか?」
 質問者 「だいたい他の牧師の悪口を言う牧師が多すぎるな。信徒に対しては優しくても、他の牧師のこととなると、とことんやっつけたくなるらしいな」
 牧師  「まぁ、牧師がすべてそうとは限らないんですけどね……」
 質問者 「どうかな。あんたも人の悪口多いで」
 牧師  「……(絶句)」

(2000年10月に受けた質問より)

 A. 一神教なんか信じてると、正直ケンカは激しくなります。

1.牧師もフツーの人間です。


  「牧師はみーんな仲良しですよ。だって牧師なんですから」なんて言っても、すぐにウソだとバレてしまいますよね。そうです。牧師どうし仲が悪いということはよくあります。
  ただ、それは、牧師だからというわけではありません。どこの世界でも仲たがいは起こるもの。牧師もただの人間だということです。牧師は特別だ、または特別でなければならないと考える人は、「牧師のクセに」と思うのでしょうが、牧師もただの人間です。
  そして、互いに相手の尊厳を守りながら、礼儀正しく討論するならともかく、じっさいにはほとんど感情的対立むきだし、なんてことも日常茶飯事です。議論に私情を持ち込む未熟さ、という点でも、牧師もフツーの人間です。

  でも、やっぱりガッカリしちゃいますよね。
  聖書にはちゃんと、
  
「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイによる福音書5章9節)とか、
  
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカによる福音書6章27−28節)とか、
  あるいは、
  
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソの信徒への手紙4章32節)……と書いてあるんですから。
  「神が私たちを赦してくださった」というのは、キリスト教の信仰のかなり核心の部分です。
  「神が私たちを赦してくださっている。だからこそ、あなたがたも赦し合いなさい」と言ってるのに、それができないんだから、人を赦せない牧師には信仰がないとしか言いようがありません。恥ずかしながら……。
  ですから、そんな牧師たちの批判をしていても時間と労力の無駄ですから、どうぞあなたはご自分で、この聖書の言葉を実行できるようトライしてみてください。その方がきっと幸福への近道だと思いますよ。(2001年2月8日記)

2.一神教なんか信じてると、正直ケンカは激しくなる場合が多いです。

  ちなみに、「真理はひとつしかない」と信じ込んで追い求めてきた「マジメな」牧師さんたちの中には、「諸説ありうる」「いろんな立場がありうる」ということを認めることができず、人と争ってばかりしている人がいます。
  「正しい事は一つしかない」と思い込んで道を求めたり、信仰を確立したりしている人は、「自分の求めている道、あるいは自分が信じている教えは、唯一絶対の真理である。だから、この道あるいはこの教え以外の考え方が間違っている」と思い込む、という過ちを犯しがちです。

  もちろん世の中のみなさんがよくおわかりのように、世の中に「正しい事はひとつしかない」なんて事はありえないし、本気で「正しいことは一つしかない。わたしはそれを信じている」なんて思い込んでいる人は、ほかの人からは「自分だけが正しいと思ってる、どんでもない独善主義者」にしか見えません。
  しかし、本人は「正しい事を求め、信じている」と心底思っているのですから、どうしようもないのです。むしろ、考えの合わない人を排除したりいじめたりすることさえ、「真理を守るための戦いだ」と思い込んでいる場合も少なくないのです。

  さらに始末に負えないのは、こういう熱狂的な信仰者は、必ずしも「
自分が正しいのだ」と思っているわけではない、ということです。
  こういう人たちの頭には、「自分が正しいのでない。正しいのは唯一の神おひとりである」という論理がインプットされています。そのために、客観的に見て明らかに自分の思い込みを他人に押し付けているにも関わらず、「それは私の考えではなく。神の御意志なのだ」と言い切ってしまえる。
  そして、それは主体および責任のすりかえである、ということに自分では決して気づかない、という意識の歪みが発生してしまうのです。

  あるいはむしろ、自分の主体的な意志による判断や生き方に全く自信をもてない人、全く自分の生き方を認めることが出来ない人が、自分の意志や責任から意識を逸らせて(心理学的には「解離」というのかな)、こういう信仰に逃げ込みます。こうなると、たとえば自分自身の人間としての主体的な責任を問われても、「これは私ではなく、神が言っておられることなのだ」と平気で言えてしまう、ということが起こりうるわけです。
  もうすこし世慣れしたズルい人だと、「わたしは取るに足らない、何も言う権利もない、自分の意見を言うことなどもおこがましいことです」などと慇懃なことを言いながら、しっかりと他人の事は「冒涜している!」とか「罪だ!」「恥だ!」と必死になって裁き倒すというような矛盾した人格を露呈します。
  まさに、「○○につける薬はない」のと同様、「熱狂的な一神教信者につける薬はない」し、「熱狂的な一神教信者は死ななきゃ治らない」のです。こうなってしまったら、もう宗教は害でしかありません。

  しかし、同じ一神教の信者でも、他の宗教、他の思想、他の人生観・世界観などを寛容に認める人たちもたくさんいます。
  本当は、人間は神ではないので、神の御心を完全に知る人などいないし、たとえある程度神の御心というものがわかったかなというような人でも、その神の御心のとおりに歩める人などもそうそういません。
  そういうことがわかっておれば、人は謙虚になるものです。
  
「わたしはこの信仰によって慰められ、癒され、救われている。しかし、もし神がお一人であったとしても、わたしのたどっている道が神へと至る唯一の道であるとは限らない。他の道もあるかも知れない。ひょっとしたら、とても私とは相容れないような生き方、救われ方もあるかも知れない。しかし、そのような私にも全く想像もつかないような神との出会い方もあるのだ……」
  と、たとえば、そのように考えることができれば、一神教の信者は、互いにもっと寛容になれるはずなのではないでしょうか。
  やはり、先にもあげた聖書の言葉が胸に染みてきます。
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソの信徒への手紙4章32節)……。
  信仰を毒にするも薬にするも、その人の心のあり方次第なのです。(2003年5月21日記)

〔初版:2001年2月8日〕
〔第2版:2003年5月21日〕

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