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 Q. 牧師さんって日曜日以外はとってもヒマなんじゃないの?

 ある牧師の息子 「ねえ、お母さん。うちのお父さんは、どうしていつも家にいるの? 他のお父さんはみんなお仕事に行ってるのに」
 その母  「お父さんはね、忙しいのよ」
 息子 「どうして? 朝から新聞読んだり、テレビを見たりしているだけじゃないか」
 母  「お父さんはね、考えてるのよ」
 息子 「何を?」
 母  「今度の日曜日の礼拝説教よ。新聞にも、テレビにも、お説教の材料になるんですって。お散歩する間も説教を考えているのよ」
 息子 「だって、テレビを見ているって言ったって、ずっと野球の中継ばかり見てるんだよ」
 母  「先週は、負けたのよね、阪神」
 息子 「どうして、お母さんはテレビを見てないのに、わかるの?」
 母  「お父さんの説教でわかるのよ」

(2003年10月に聞いた話よりアレンジ)

 A. ヒマなほうがいい職業だってあるのです。

自営業か芸術家のような牧師は多い

  あるキリスト教会の信徒向けの新聞というか広報誌に、平日の牧師の仕事について、こんな風に書いてあった記事を見ました。
  「日曜日以外の日に、牧師はいったい何をしているのでしょうか」
  この記事の筆者が、牧師の知人関係に聞きまわって、いちばん多かったのは「礼拝・説教・集会の準備」だということでした。
  まぁこの記事の趣旨は、「教会の中心は礼拝ですよ」ということなのですが、それにしても、この記事を読んだ人は、「なーんだ、牧師ってヒマなんだな」と思った人も多いんじゃないですかね。

  上のQに紹介したような、朝からゆっくり新聞読んだり、テレビを見ていたり、はたまた散歩をしていたり、車を洗っていたり……つまり、何をやっているのかわからないような牧師さんというのは、以前にはよく見られました。
  最近は、少なくなりましたが、一昔前は、教会からもらう少ない収入で(またなぜかそういうところの牧師が案外子だくさんだったりなんかする)、とても一家全員が食べてはいけないというのに、牧師は「おれは説教に命をかけているんだっ」と、自分は一切アルバイトもせず、妻にパートや内職をさせて、家事もさせて……と。
  それでも牧師の妻は、「教会の中心は礼拝。礼拝の中心は説教。そんな大切な神さまの御用に、夫は仕えているのだから……」と、ガマンして夫と家族を支えて働く、という図が見られることがありました。
  最近は、こういうことをやっていると、「女性差別」、「性別役割分担の強制」ということになりますので、家庭内でハウスキーピング:家事や育児の労働を、積極的に引き受ける牧師も増えてきました。

  が、自分の職場に、一日の大部分を拘束されて、取引先からの度重なる電話への応対や、膨大なクレームの処理に追われていたり、あるいはそして新規市場開拓や従来の得意先を維持してゆくための営業活動を、ライバル他社としのぎを削りながら展開する、なんて仕事の仕方をしている牧師はほとんどいません。
  ごくまれに、とても規模の大きな教会で、集会の数も多く、たいへん多忙なところはあるにはありますが、そういう教会でなければ、基本的に仕事に「追われる」という感覚を味わわずに、まぁ社会人平均からすると、ゆったりしているんじゃないかな、と感じさせる牧師さんは多いです。

  教会に電話がジャンジャカかかってくるわけではないし、ゾロゾロ人が訪ねてくるわけでもないし、来ないからといって人を集めるために布教活動をやりまくる牧師さんも減ったし、「あそこの寺の檀家を、全員うちの教会員に転向させてやる!」と、必死に営業活動するわけでもない。
  月々の教会への新規来会者の人数ノルマもないし、洗礼を授けて入会してもらう人数のノルマがあるわけでもない。
  家庭集会をやろうっていっても、最近みんな忙しくなって、お家を開放してくれるお宅も少なくなってきましたしね。
  ふだん来られない教会員のお宅を訪問したり、入院している教会員をお見舞いに行ったり、そういうことは、自発的にやろうと思えばできるけど、自分でスケジュールを決められるから、マイペースでやることが可能です。
  まあ、ですから、少し余裕のある自営業のような感じの牧師が多いんじゃないでしょうか。

  教会にいても、ほとんどひとりだし、それで時間がたっぷりあって、ということになると、しっかり時間をかけて説教を準備しようと思えばできるわけです。
  説教と言うのは、芸術作品のようなもので、手をかけて作ろうと思えば、いくらでも凝ってしまえるし、芸術家のようでもあります。


忙しい牧師もいる

  もちろん忙しい牧師もいます。
  高齢化した教会で、思ったより頻繁に、そしていやおうなしにやってくるスケジュール、それはお葬式です。
  お葬式は自分でスケジュールを決めることができないし、それ以外の自分のスケジュールがあらかじめ決まっていたとしても、全部お葬式優先で変更やキャンセルとなります。
  お年寄りの教会員の多い教会というのは増えているので、それはもう本当に頻繁に別れを告げなければならない人は毎月多く、それは大きな教会だと特にそうなのです。
  そして、お葬式は、ただ亡くなった人を送り出す儀式を当日やればいいというものでもないです。遺族のみなさんの心のケアなどもあります。葬儀の前、後、何日も何ヶ月も、そして何年も、きちんケアをしてゆこうとすると、その負担も大きいです。
  お葬式で忙しい牧師って、悲しいです。高齢者の多い教会で、牧師がヒマだってことはいいことですよ。

  それから、だれから強制されるわけではないけれども、人知れず、人のために、社会のために懸命に働いている牧師もいます。

  地域行政や、国政の矛盾に取り組むために市民運動に参加していたり、あるいは、それが差別や戦争や飢餓の問題になると、時に激しい抗議行動を行なったりすることもあります。あるいは、激しい方法ではなくても、地道にねばりづよく時間をかけて、非暴力的な方法で、権力に抗議してゆくということを続けている牧師もたくさんいます。
  そんなことをなぜ牧師がするのか、と思われるかもしれませんが、キリスト教の「愛」というのは、個人と個人の愛だけではなく、個々人が集合した社会に対する愛も含んでいるのです。また、社会が本当に平和で豊かで公平にならないと、個々人の本当の幸福も訪れるはずがありませんから。だれかが暴力の犠牲になっている、あるいは誰かが飢えている、という状況を放置して、あるいはその状況による恩恵をこうむりながら、だれかが豊かさと安全を確保して、「ああ神さまありがとうございます」と言っているのなら、そういう世の中を見てを神さまは喜んでくださるはずはなかろうと思う正常な感覚の持ち主だということです。

  マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1929−1968:アメリカ)や、ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906−1945:ポーランド)といった過去の偉大な牧師たちが、そのような行動の理論や方法論を編み出す上で、大きな貢献をしてくれています。そして、いまあげたこの二人の偉大な牧師は、かたや暗殺され、かたやナチスに処刑される、という死をとげましたが、おのれの命をかけてでも、これに続き、平和と平等のために戦う覚悟をしている牧師も、たくさんいるのです。
  あるいは、マザー・テレサ(アグネス・ゴンジャ、1910−1997:ユーゴスラビア→インド)の貧困に取り組んだ活動も、多くのクリスチャンに生き方の指針を与えてくれますし、彼女に続こうとする牧師もたくさんいるのです。
  そういう人たちは、こんな風にネット上の教会でごたくを並べている三十番地キリスト教会の牧師よりも、はるかに立派な牧師たちです。
  そういう人たちは、「忙しい」です。世の中に矛盾と暴力が存在する限り、その牧師たちの働きはやむことがありません。

  〔お恥ずかしながら、補足〕
  手前ミソになっちゃうんですが、学校で働いている牧師というのは、なかなか忙しいんですよ。学校で働いている牧師というのは、たとえばプロテスタント学校の多く場合、聖書科/宗教科/キリスト教学担当の教師ということになるわけですけど。
  もともと日本の教師というのは忙しいです。授業やって、クラス担任やって、クラブの顧問やって、進路指導やって、生活指導やって、カウンセリングやって、教育研究活動やって……しかも相手にしている子どもの大半が、最近の荒れ果てた環境で生まれ育ってきた、ガサガサに傷ついた心の持ち主の大群じゃないですか。教師に「精神的にも肉体的にも健康でいろ」と言うほうがムリです。もうみんなボロボロですよ。いまどき教師やってて健康な人なんて、めちゃめちゃタフな人か、サボってるか、どっちかじゃないですかね。
  そんな中で、教員の一人として働くキリスト教学校の牧師は、やはりボロボロ。加えて、キリスト教学校のクリスチャンというのは、実は少数派ですから、精神的に孤立感も強い。じっさい、手伝ってくれる人はいないことはないけど、基本的には、何百人も参加する学校のキリスト教行事を、少なくとも計画・立案・推進は、いつもひとりぼっちでやらないといけない。まぁけっこう忙しい。
  日曜日に教会に行けないほど忙しいことが多いという現状もあるわけです。
  それを、「牧師のくせに、クリスチャンのくせに、教会に行かないなんて!」と、責めるクリスチャンもいます。


忙しければいいのか

  さて、本題に戻りますが。
  「牧師なんて、どうせヒマなんだろう」と言う人は多い。では、はたして忙しい人がエライのでしょうか?
  あまり大事なこととは思われないことに一生懸命時間と労力を注いでいたりしている人というのは、どんな立場の人にも見られることではないでしょうか?
  また、人目にはヒマそうに見えても、実はたいへん時間を使うのが上手で、実はたいへん大切な仕事をしている人もいますよね。
  あるいは、同じ仕事内容であっても、ダラダラと進める人が案外「忙しい、忙しい」と言っていたり、涼しい顔してテキパキ進める人もいます。それがどちらがいいとかじゃなくて、向き不向きもあります。まぁ、たいてい自分がこうありたいと思ったとおりにいかなくて悩む人のほうが多いでしょうけど。
  でも結局、忙しいか忙しくないか、という単純なものさしでは、人の仕事の価値は計れないということですよね。
  要は、どういう目的で、どれだけ人のために意味のあることをしているのか、ということじゃないですか。なにが人のためなのか、という価値判断の問題は、別の機会に論じるとして。

  それに、ぼくの個人的な意見としては、自分の経験からも思うんですが、牧師に限らず、人に接し、人のお世話をする仕事の人は、自分の気持ちに余裕が無くなるほど忙しくはならないほうが、望ましいと思います。
  忙しいとは「心が亡びる」と書く……とはよく言ったもの。忙しくて心の余裕がないと、他人の痛みも悩みも受け止めたり、受け入れたりすることができない。あるいは、自分のストレスを人にぶつけてしまったりしてしまう。そうなると、もう宗教者として、人の痛みのそばに寄り添うなんてことはできなくなってしまいます。

  だから、牧師はヒマなほうがいい。ヒマヒマしてて、この世を客観的に大きな目で優しく見ているような人がいい。

  忙しい人の気持ちがわかる、ヒマな人。
  あるいは、忙しくても心はヒマな人。
  そんな牧師がいいな、と思いますね。

  で、そんないい牧師のところには、人がたくさんやってきて、結局ヒマじゃなくなっちゃうんだろうけどね(笑)。

〔2005年2月10日記〕

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