「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. 愛の宗教なのに、どうして宗教戦争するんですか?
 
 これはキリスト教に限らないのですが、神の名のもとにふるう暴力をどうお考えになりますか?
 私は無宗教ですので、どうにも理解に苦しみます。
 宗派が違うからといって争い、聖地をめぐって殺し合い、その上キリスト教以外でもやはり大多数が何らかの信仰する宗教を持っていると思われる米国が、あんなにも他国の紛争に積極的に参加するのはどうしてなのでしょうか。
 国と国との争いです。平和的に話し合いで折り合いをつけるのは難しいことでしょう。
 しかし、武力で対抗すれば血が流れることがわかっていながら、神には自分の身の安全だけ十字をきって祈りつつ、一方で他人を殺すのですか。
 正しく理解しないと、宗教とはそんなに都合のよいものだったのかとあきれたままでおわってしまいそうです。
 もしくは、神の名のもとに集まれと言われ戦っている人々が、宗教戦争の駒になっているようでかわいそうという感想で終ってしまいます。
 その土地に生まれ、親が信仰しているからという理由で生まれたときから信仰を余儀なくされ、気がついたら不確かな神のために隣の国と戦わなければならないというのではあんまりだと。
 
 どんなに考えが違っても、他人を殺してもいい宗教などないと私は考えます。
 考えをお聞かせください。

(2001年8月23日に受けた質問より)

 A. 宗教戦争は宗教心の欠如から起こります。

  私も、たぶんあなたと同じ感覚を持っていると思います。
  ただ、実際には世の中には他人を殺すことを宗教によって正当化する人はたくさんいます。だから私の考えは、他人を殺していい宗教は存在する価値はありません、ということになるでしょうか。
  
  あなたは米国が他国の紛争に積極的に参加することに疑問を投げかけてくれました。
  残念ながらあなたが質問してくれた8月には予想もつかなかったような戦争にアメリカは踏み出してしまいました。この文章を書いている今、アメリカはアフガニスタンに史上最大の空爆を行なっています。
  アメリカのブッシュ大統領も、テロリストのオサマ・ビン・ラーディン氏も(彼が2001年9月11日の同時多発テロの首謀者であるとされていますが、まだ確たる証拠はあがっていません)、たがいに自分たちの陣営が神の側に立っている「善」であり、相手が「悪」であると主張しています。
  日本のクリスチャンの中にも、「イスラムは好戦的で危険だが、キリスト教は平和主義だからあんなことはしない」と平気で言う人もいます。まさに噴飯ものです。キリスト教も、十字軍・魔女狩り・異端審問……どれだけの残虐行為を積み重ねてきた事でしょうか。そして近現代、政教分離が進む時代においても、キリスト教は国家の戦争に反対しきれなかった、あるいは積極的に協力した場合もあったし、日本においてさえそうだったのです。

  ここでお願いがあります。
  
「神」「宗教」「宗教の信者」は、それぞれ区別して考えてください。
  
宗教が神の教えや思いを正しく代弁しているとは限らないし、また、ある宗教の信者がその宗教の教えを正しく実践しているかどうかというと、必ずしもそうでないことも多いのです。

  宗教は人間の産物です。
  神が宗教を造ったのではありません。神や仏やその他の超越的な存在の思い・教えを悟ったと主張する人間が宗教を始めたり、それらに近づこうとする人が宗教に入信したり、あるいは物心ついたらある宗教が自分の環境だったとか、いろいろありますが、結局宗教自体は人間の営みです。
  したがって、当然、ある宗教の見解に、その宗教が発生し、発展した風土、その宗教を産み育てた人々の生活、文化、政治状況など、いろんな要素が反映しています。もっとありていに言ってしまえば、その宗教を産み育てた人々の主観が入るのです。
  
宗教の教えは神の意志そのものではなく、「神の意志はこうだ」という人間の見解あるいは解釈にすぎません。
  ですから、本来宗教は、常に神の意志を本当に正しくあらわしているかどうか自己点検し、常に自分は間違っているかも知れないという謙虚さを持っていなければなりませんし、それ故に、異なる見解を持つ他宗教に対して寛容であるべきなのです。
  残念ながら、「神は絶対者である全知全能である」という教義が、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教で発生して以来、これらの宗教は、「だからこれを信じる自分たちの宗教も絶対である」というカン違いを犯す危険性を常にはらむようになってしまいました。
  でも、違うのです。たとえこれらの宗教の「神は絶対者である」という教義が正しかったとしても、「それを信じる宗教も絶対である」とは言えないのです。

  これは宗教と信者の関係についても言える事で、たとえば、どんなに新約聖書に、
  
「『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書5章38〜39節)
  「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章43〜44節)
  「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章52節)
  「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブの手紙1章20節)

と書いてあっても、クリスチャンのはずのアメリカ大統領は「報復だ!」と空爆を断行するし、その攻撃を「善と悪の戦い」とまで美化してしまう。国民も「God Bless America」(神はアメリカを祝福したもう)を、湾岸戦争のときと同じように高らかに歌ってしまう。
  客観的に見れば、どうしようもなく矛盾だけど、やってる本人は矛盾に気づかない。気づかないどころか、自分は信心深いとさえ思い込んでいるでしょうね。だから宗教はコワイ、宗教はアブナイと言われる。しかし、いまの新約聖書の言葉と信者の行動の矛盾にも現れているように、
アブナイのは人間であって、宗教およびその経典ではないという場合もあるのです。

  私たちは、ある人がある宗教の信者だと、その人の言動を見て「あの宗教はそういう宗教だ」と判断しがちです。そうしたい気持ちは自然です。しかし、実はそうではないのです。
  一人、あるいは何人かの信者を見ただけで宗教は判断できません。なぜならその信者は単に自分の主張を正当化するために、自分が属している宗教の名を使っているに過ぎない場合があるからです。
  と言うか、テロや戦争のような危険な場合に限らず、日常の道徳について意見を述べるような一般的なケース(例えば結婚前にセックスはしてはいけない。それは神を冒涜することだ、とか)でも、そういう場合が大半でしょう。
人間は、自分の主張を正当化するためによく宗教や神仏を利用するのです。利用された神さまはいい迷惑でしょう。

  したがって私たちは、
本当に神に対して謙虚な信仰を持つのならば、「神のご意志はこうだ」とは言えないはずなのです。
  神のご意志に関する人間の見解は、実に多様です。それは主観に影響されているから当然です。そのように「人間には神の本当のご意志は測り知ることはできないのだ」という謙虚さがあれば、お互いの見解の多様性を認め合うことができる。つまり、謙虚な信仰心・宗教心があれば平和になるはずなのです。
  しかし、信仰者が「神のご意志はこうだ」と言い切ったとき、実はそれは謙虚さを失って自分の見解を絶対化している状態です。しかも、「これは自分ではなく神のご意志だ」と言う事で、自分の言動の責任を自分で負わず、神に転嫁しているのです。実に宗教者としては悪質だと言えるでしょう。
  つまり、
神のご意志を声高に主張する人ほど実は信仰はない、とも言えるでしょう。彼らは、人間には測り知ることのできない神を信じているのではなく、神に関する特定の宗教の教義を信じている、あるいは洗脳されているにすぎないのです。

  そういうわけで、宗教戦争は宗教心の欠如から起こる。これが今のところの私の見解です。
  

〔最終更新日:2001年10月17日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる
 ボランティア連絡所“Voluntas”を訪ねる
 解放劇場を訪ねる
 教会の玄関へ戻る