「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. ホームページで説教が読めるのに、なんで礼拝に出るの?

 質問者A「先生のホームページや、他の教会のホームページでも、牧師先生のお説教がのっていますね」
 牧師  「はい。あれ、いいでしょ? 事情があってお休みしている人や……」
 質問者B「でも、なんか損した気分です。だって、暑い日も寒い日も、せっかく足を運んで、教会に行ってるのに、礼拝が終わって何日かもしないうちに、自分の家のパソコンで読めるんですから意味ないじゃないですか」」
 質問者C「そうそう。あとでホームページを見たら、その場にいなかった人でも内容がわかってしまうでしょう? そしたら、教会から謝礼も出して説教をお願いしてるのに、もったいないじゃないですか」
 牧師  「……よ、読んで済むような説教だったら、わざわざ礼拝でやる必要ないってことですかね……(絶句)」

(2000年後半から「三十番地キリスト教会」に「礼拝堂」のコーナーを開設して以来、ときどき牧師の夢に出てくる質問より)

 A. ぜんぜん違うんですよ。ライブというのはね。

1.説教もライブのほうがいいんです。


  音楽のライブのことを思い起こしてみてください。
  CDなどのオーディオ機器を通して聴いた音楽とはぜんぜん違うんじゃないでしょうか。
  ミュージシャンの顔、姿、動き、息遣い、音の響き、空気の流れ、いっしょに参加している聴衆のムード、そして、ミュージシャンと聴衆のやりとり、コミュニケーションもある。

  同じように、礼拝の説教も、ライブと読むのとでは、ずいぶん違うのです。
  同じ説教でも、直接、人の口から語られるのと、活字で文章として読むのとでは、インパクトが違います。それに、文字情報だけでは、語り手がどういうニュアンスで言っているのか、じゅうぶん伝わらないこともある。
  また、教会によっては、礼拝のあとで食事やお茶をしながら話す時間を持っているところがあります。そういうところでは、たとえば、話した牧師などに、礼拝の中では語り尽くせなかったことをさらに聴けたり、あなたがその気にさえなれば、もうちょっと突っ込んで聴いてみたいところを質問したりすることもできます。つまり、コミュニケーションができるのです。
  だから、礼拝もライブのほうがいいと私は思います。


2.礼拝は説教だけじゃないんです。

  それから、礼拝というのは説教だけでできているわけではありません。
  人が集まってきて、あいさつを交わしたり、「元気?」とか「最近どう?」なんて声をかけあったりなんかする、そんな人の出会いとか交わりがあり、そしてオルガンの奏楽が始まり、讃美歌を歌い、聖書を読み、祈りをささげ、説教に耳を傾け、献金を献げたり、瞑想をしたり……などなど、いろんな要素があります。
  教会によってオルガンが、ギターやドラムだったり、瞑想があったりなかったり、細かい点ではいろんなスタイルがあります。また、大きな教会では、自分たちだけが讃美歌を歌うのではなくて、聖歌隊のコーラスを聞くことができるようなところもあります。あるいは小さい教会で、温かいアットホームな雰囲気で、心癒される礼拝ができるところもあります。
  いろいろありますが、要するに礼拝というのは、歌あり、学びあり、祈りあり、奉仕あり、懺悔あり、癒しあり……いろんな要素が詰まっていて、そのたった1−2時間の間にもいろいろドラマがあるわけです。
  時には、聖餐式や洗礼式などの特別なセレモニーが行なわれたり、イースターやクリスマスにはいつもと違ったプログラムを楽しむこともできます。
  プロテスタントの教会は、これまで往々にして「説教中心主義」で、礼拝といえば「お話の時間」みたいになってしまっている教会もよくありますし、信徒のほうも「お話」が面白いかどうかで、「あの牧師はあかん」とか「今日の礼拝はよかった」とか「つまらん」とか勝手な品評をしたりする風潮があったりしますが、これはちょっとバランス感覚を欠いているのであって、じっさいには礼拝は説教オンリーではないし、極端な話、説教のない礼拝だってありうるのです。
  説教が大切ではないという意味ではありませんよ。説教は大切です。説教をないがしろにして、礼拝が台無しになるようなこともあります。だから説教に手抜きは許されないと思っています。
  でも、「説教
大事」と言うよりも、「説教大事」なのです。
 

3.礼拝は五感を使って参加する事ができます。

  説教はどちらかというと、耳で聴きますが、頭で理解をする要素が強いものです。
  しかし、礼拝には、それ以外の感覚を動員して参加する要素もたくさんあります。

  たとえば、
讃美歌を歌うという行為。ここには、「自分が歌う」というだけではなく、「人の声を聴く」という要素、そして「自分の声と人の声を合わせて聴く」という体験があります。讃美歌のハーモニーがビシバシに決まった瞬間というのは、鳥肌が立つほど、ときには涙が出るほど感動するものです。
  本当に心のこもった讃美歌のハーモニーに全身が包まれた時、音は「触る」ことができる、という感覚さえわいてくるものなのです。そうして「音」に包まれることで、自分が神さまの愛に包まれているイメージを、心に描きやすくなります。いい気持ちです。

  また、ときどき行われる
聖餐式は、キリストが十字架でささげた命を、パン(キリストの体)とワイン(キリストの血)という形にかえて、手で触れ、鼻で嗅ぎ、口で受けとめ、舌で味わい、食道と胃に受け入れる、という体験ができます。触覚と嗅覚と味覚にうったえる、高度なセレモニーです。

  そして、大切なのは
沈黙です。何も音のない時間と空間に包まれる事で、逆にその時間と空間が濃密なものになる、という感覚を味わうことができます。沈黙と静寂によってこそ、わたしたちはやっと自分を見つめなおすことができるのであり、またそういう環境にあって初めて「見えない神」、あるいは「満たされた空」といったものを意識する事もできるのです。
  教会によっては「懺悔の時」と称して、数十秒間の沈黙の時を礼拝の中でもっているところがあります。黙って誰にもいえない自分の1週間の罪を振り返るのです。自分の内面に向き合わされます。そして、いつも数十秒では足りない、と思わされるのです。

  さきほど、「説教は頭で理解する要素が強い」と言いましたが、それは、いまのところ多くの教会で語られているのは、そういう説教が多いという事情があるからです。やたらギリシャ語やヘブライ語の説明をしてみたり、むずかしい哲学っぽい概念をこねくりまわしたり、本から丸写ししてきて棒読みしてるような説教をしている牧師は、じっさい多いのです。私もよく失敗しています。
  しかし、そういう説教ばかりでなく、たとえば「詩の朗読のような説教」とか、「朗読劇のような説教」ということも可能だと思います。そういう技術が成熟してくれば、いつもの講壇、いつものマイクを通した牧師の話が、「頭で理解する」だけでなく、むしろ「心で感じる」言葉になっていくことも可能になるのではないか、と思います。努力してゆきたいと思います。

  とにかく、説教を「読むもの」にしてしまうと、そういう頭で理解する要素ばかりになりがちで、本当の礼拝にはつながっていかないような気がするんです。やはり「頭でわかるもの」だけではなく、
「心で感じるもの」でもあるということが大事だと思うのです。「


4.礼拝は個人的なものではありません。

  それから、信仰や礼拝というのは、実は個人のものではありません。
  個々人の間で伝えられてゆく神やキリストに関するメッセージというのは、たしかに大切ですし、そういう個々の出会いから信仰に目覚める人もたくさんいるでしょう。
  しかし、個々人どうしの情報交換というのは、往々にして独りよがりで、自分勝手で、自己満足的、そして独善的な信仰理解に陥る危険性が多いのです。
  だから、たとえ教会でみんなといっしょに礼拝に参加していても、説教を聴くだけで、あとは誰とも何も話さず帰ってゆく、というのよりも、説教で話された内容について、みんなでさらに話し合いや分かち合い・深め合いができる、というムードのある教会のほうがいいのです。牧師の言ったことに対して、「本当にそうですかねぇ」なんて質問が出るくらいがいいのです。そんな質問に牧師がいっしょうけんめい答えていこうとする、そんな対話の中でお互いが成長してゆける、というのが理想です。

  また、キリスト教のメッセージは、個人で受けとるのではなく、複数の人間で分け合う方がいいのです。
  
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18章20節)
……とイエスも言っているように、キリスト教のメッセージというのは、少なくとも二人か三人でいいから、複数の人間によって共有されないと意味がないのです。もちろん、人間は多様ですから、全ての人間が共通の理解に落ち着く必要はありません。しかし、ごく少数でもいいから、誰かと共有するものでないといけないのです。
  それはなぜかというと、キリスト教では、
「最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への手紙T 13章13節)とされているからです。相手がいない愛なんて存在しません。だから、キリスト教の愛のメッセージを受け取って、それを自分だけで持っておく、ということは、自己矛盾になるのです。あるいは愛というものを、頭だけでわかっていても、行動や経験にはつながっていかない状態なのです。
  そういうわけで、たとえ、一生懸命、愛について語っているキリスト教のメッセージを読んでも、そのキリスト教の愛を確かめ合ったり、感じあったりできる場所にいない、というのは、どうも中途半端だな、ということになるわけです。

  パソコンの画面でキリスト教のメッセージを読むというのは、事情があって礼拝に参加できない人にとっては便利なのですが、それは礼拝に参加している人とメッセージを共有するための補助的手段としてよいのであって、決してそれで充分だというわけではないのです。
  加えて、自分のプライベートな空間で見る、私物のパソコンの画面上に表れた文字列は、個人で理解しただけで自己完結してしまいがちな情報です。それは説教の本来の目的とは違う利用のされ方なのです。
  キリスト教の、
神やキリストに関する情報は、互いに分かち合い、また愛し合う実践の中で、確かにされ、また次の人に伝えられてゆくものなのです。


5.礼拝には偶然の楽しみもあります。

  それ以外にも、礼拝には、偶然おこるハプニングというものがあり、これがなかなかよいのです。
  もちろん礼拝にハプニングを期待するというのは本来はおかしなことかもしれないし、不謹慎なことかもしれません。しかし、ここで期待しているのは、礼拝がぶっこわれるような大騒ぎのことではありません。
  それは、キチンと毎回形式が決まっているからこそ起こる、そして安心して受け止めることができる、小さな偶然のことなのです。

  決まりきった形式というものは、退屈だとかマンネリ化だとか色々言われますが、それ自体は、安らぎを求める人にとっては大切なものです。その一方で、決まりきった形式というものは、細部まで完全に完璧に行うということはなかなかできないものです。しかし、基本的な形式というものは決まっているわけで、意図的にそこから逸脱することはないとみんな思っているので、安心して礼拝に参加していられるし、そういう小さなハプニングをハプニングとして楽しむ余裕も出てくるのです。
  つまり、
「決まりきった複雑な形式は、完璧に行い得ないがゆえに、意味がある」。ヘンでしょうか? こういう考え方は。
  そして、まれに、まったく「偶然」に「完璧な」礼拝なんてものができてしまったりするときがある、そんなハプニング(?)もあったりするのです。

  偶然のハプニングや、牧師や信徒や参列者のちょっとした瞬間的な思いつきによる言葉かけや思いやりの動きが、形式を越えた、深く心に響く礼拝を作り出してしまう瞬間というものもあります。
  これは私のちょっとした経験です。
  私はキリスト教学校で働いていて、学校で礼拝をしています。たいてい生徒たちはザワザワとおしゃべりをして、礼拝を始めるまでになかなか静かになってくれない。ところが、ある日、奨励にあたっていた先生がお話をしようとすると、突然マイクがこわれてしまった。そこで仕方がないからマイクなしで話し始めた。生徒たちは最初笑っていたが、やがて、マイクを通さない小さな声を聴くために、しだいに口を閉じていった……。
  その日の礼拝は、ふだんからは考えられないくらい静寂な礼拝堂で、一同がひとりの人間の言葉に傾聴するすばらしい時間を持つことができました。そのとき、私は、生徒たちはとてもやさしい心を秘めていたのだ、ということを知りました。そして、人に思いを伝えるためには、声を大きくすればいいというものでもない、ということも学びました。
  そういうことは、パソコンの画面の上では、起こらないことです。

  じっさいの教会では、礼拝中に教会員の赤ん坊が泣き出したりとか、牧師の息子が説教中に「お菓子くれ」と講壇に上がってきたりとか、講壇にあがった牧師の姿を見て牧師の娘が「ハズカシ!」と叫んだりとか、お年寄りや体調を崩された方が、急に倒れたりして救急車を呼ばなければならなくなったとか……いろいろ起こりうるわけですが、そういう時こそ、「教会」らしさが発揮されるチャンスかも知れない。
  説教が完全に行われなかったとしても、ぜんぜん計画どおりに行かなかったかも知れなくても、参加していた人の心に残る礼拝ができるかもしれない。そんな
偶然の中に働く神のわざを受け入れる心のゆとりが大切なのではないでしょうか。
  そういうことも、パソコンの画面上では、起こらないことです。


6.もちろんヴァーチャル教会にはヴァーチャル教会の役割があります。

  ですから、ヴァーチャル教会で読めるようになっているメッセージというのは、あくまで距離や仕事やその他、いっしょに集うことのできない事情のある人のための補助手段であったり、新しい出会いや試みを求めての実験的手段です。
  もちろん、教会仕立てのホームページというのは、現実の教会ではとても扱いきれない、あるいはじっさい扱ってもらえなかったり、拒絶されたり、遠ざけられたりした悩みや傷みを分かち合う場としても有効な時があります。人と分かち合った方がいいと頭で分かっていても、やはり人には言いにくい事情を抱えている人もたくさんいます。
  カトリックには「告解室」というものがありますが、そういうシステムはプロテスタントにはないし、告解室があったとしても、知り合いの司祭さんには聞かれたくないこともある。直接会う心配のない人にとりあえず話をしたい、ということもあります。そういう意味では、ヴァーチャル教会もこれからは不可欠な存在になってゆくでしょう。
  しかし、説教だけに関して言えば、ヴァーチャル教会で読める「文字だけの説教」は、それ自体は永遠に不完全でしかありえないのです。
  お時間とご健康がゆるす限り、説教は礼拝で受けとった方がいいと思います。
  説教は読むものではなく、礼拝の場で
経験として共有するものだからです。

〔最終更新日:2002年9月5日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる
 ボランティア連絡所“Voluntas”を訪ねる
 解放劇場を訪ねる
 教会の玄関へ戻る