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 Q. セクシーな服で礼拝に出ちゃいけませんか?

 教師  「おーい、礼拝堂にはジャージを着てくるんじゃないよ。それが、うちの学校の規則なんだからね」
 生徒A 「えー! だってこのジャージ脱いだら、下はブラジャーなんですよぉ」
 教師  「いま脱げ言うとるんとちがうやろ! 今度からは着替えてきなさいと言うとるんや」(関西弁に変わる)
 生徒A 「もうーやだー、先生脱いじゃうわよぉ」(人の話を聞いてない)
 教師  「……うーん、しかしブラで礼拝に出たら、本当にいけないのかなぁ……」(口の中でブツブツ)

 教師  「こら! なんだ、そんな背中の大きく開いた服を着て! そんな服は、神さまに対して失礼だろう」
 生徒B 「??? なにそれ! 神さまに失礼な服なんか、ほんまにあんの?! 牧師さんに聞いてみよっ。背中の開いた服って、ほんまに神さまに失礼なん?」
 牧師  「うーん、でもその君の背中も、神さまがつくったものやからねぇ」
 生徒B 「そやろ! そやろ! 神さまに失礼なことなんかないやろ?!」
 牧師  「神さまうんぬん以前の、礼儀の問題やね」
 生徒B 「ほーらみてみー! あの教師やっぱりわかってない!」(出てゆく。人の話をきいてない)

(2003年9月17日、牧師の職場での学校礼拝の前後で起こった会話)

 A. どんな服を着てたって、君はセクシーさ。

【目次】
   
1.たしかに礼拝堂では、肌はあまり見ない
   2.「ドレス・コード」という発想
   3.実際の礼拝では
   4.セクシーで困るのはだれか
   5.肌を見せない・見ない人の発想
   6.結論



1.たしかに礼拝堂では、肌はあまり見ない


  たしかに、宗教的な場所では、あんまり肌を見せないというところが多いですよね。
  イスラームでは、男性は肘もひざも見せると無礼になるというし、女性は基本的に顔以外は人目に触れないようになっていて、必ずスカーフを頭から肩・背中にかけてかぶっていますね。これは礼拝のときだけではなくて、ふだんから外に出るときはそう。神さまは、モスクのような特別の場所だけではなく、どこにでもいらっしゃるわけだから、当然と言えば当然。
  よく観光客の女性なんか、腕どころか肩も背中も、胸の谷間もあらわにして歩き回ってますが、モスク内の見学はおことわりされます。あるいは見学を認めているところでも、スカーフを貸してくれます。そして「暑い、暑い」とブウブウ文句を言いながら入っていくわけです。
  しかし、「アン・サマーズ」という有名(らしい)な下着会社が、聖地マッカでセクシー下着のチェーン店を展開するという話が2000年以降あったけれども、あれはどうなったのかな? セクシー下着はイスラームに反しない、と現地の経営陣も言っていたらしいけど。でも、あくまで下に何を着用しているかは自由なんであって、人前や礼拝に出るときには、肌は隠すんでしょうね。

  キリスト教だって、基本的にクリスチャンというのは礼拝にはフォーマルなかっこうで参加してきました。暑い暑いのに、きちっとドレスやスーツで参加する、という暗黙のルールがあるところは今でもたくさんあります。
  聖書に「こういう服を着て礼拝に参加しなさい」と書いているわけではないので、制服のようにハッキリしたルールがあるわけではないんですが、礼拝にあんまり下着やナイトウェア、あるいはイブニング・ドレスのようなセクシーな衣裳、はたまた水着とか裸とか、そういうかっこうでは行きません。
  では、やっぱり宗教というのは、肌を見せてはいけないものなんでしょうか? どんなに暑くても、どんなに湿気がひどくても。


2.「ドレス・コード」という発想

  礼拝に限らず、場所柄にふさわしいかっこうというのがありますよね。こういうのを
「ドレス・コード」と言います。直訳すると「服装規定」……カタイね、「着るものについての決まりごと」かな。
  たとえば、ゴルフはスポーツだと言っても、Tシャツやタンクトップでゴルフ場に来ると嫌がられるでしょう。ゴルフには「ドレス・コード」というのがあるからです。襟付きのシャツでブレザー着用、ゴルフは紳士のスポーツですから。
  また、パーティなどでも、「フォーマル」とか「ブラックタイ」とか「ジャケット着用」とか、パーティのタイプによっていろんな「ドレス・コード」があります。
  欧米ではドレス・コードに厳しいパーティでは、入口にチェックする人がいて、ドレス・コードに合わない格好をしてきた人は、入れてもらえなかったりする場合もあるのです。

  大きく分けるとドレス・コードには、3つあります。
   
(1)フォーマル……女性ならイブニングドレス・カクテルドレス・和服など。男性ならフロックコート・タキシード・ダークスーツ・蝶ネクタイなど
   
(2)インフォーマル……女性ならワンピース・スーツなどにアクセサリーも。男性ならスーツにネクタイなど。
   
(3)カジュアル……女性ならブラウスにスカートまたはスラックス。ただしショートパンツやサンダルはダメ。男性なら襟付きのスポーツシャツ・ジャケット着用など。
  ぼくもさほどえらそうなことは言えませんが、それにしても日本人は、このドレス・コードにあまりに無知・無頓着だったり、とんちんかんな格好をして恥をかくことが多いそうです。

  そんな日本の教会でやる結婚式や披露宴の案内でも、最近はよく「どうぞ平服でお越しください」と案内状に書いてあったりする。で、「そうか平服か!」と思って、普段着で行ったりすると「なんだ、こいつは?」という目で見られる。そういう失敗したことありませんか? 「平服」ってのは上記のドレス・コードでいうと「インフォーマル」に近いけど、「平服」とか「インフォーマル」とか言っても、普段着のことではないのです。「『タキシード』とか『着物』とか、いわゆる『礼服』で来ることはないですよ」という意味です。だから、みんなスーツでやってくる。
  こうやって、その場その場に合わせて、ふさわしいと決められた服装がわかってくれば、今度はそれを楽しむことができます。
  時々、学校の卒業式などで、朝行う式からイブニング・ドレスみたいなのを着てくる女の子がいたりするけど、あれはちょっとなぁと思う。式は、スーツや着物で出て、謝恩会は思いっきりセクシーなドレスで来ればいいのに、とか思う。TPO(時と場所と目的)に合わせた服装というのは、変化があるから楽しい。着替えて、いろんな自分を表現できるから楽しいのです。
  ラクだから、暑いから、というだけで、ラフな格好ばかりしているのは、なんというか、「芸がない」。

  なんで、そういうドレス・コードというものがあるのかというと、やはり「お互いに失礼にならない」、あるいはもっと積極的に「お互いに尊敬の気持ちを伝え合う」というものではないかと思います。また、「その場の雰囲気を大切にする」ということもあります。
  マナーというものはなんでもそうではないでしょうか。「わたしはあなたを大切に思っている」「わたしはこの場を大切に思っている」という尊重・尊敬の気持ちの表現です。
  じゃあ、なんで普段着よりもスーツが、スーツよりも礼服のほうが、相手への尊重になるのか?
  それはその人が生きている社会によるわけです。西洋文化の影響を受けている多くの地域ではスーツが多かったりするが、日本では羽織袴でもいいし、スコットランドではスカートのようなキルトを着たらいいし、民族によってはそれこそ背中もおなかもあらわになっていても、その民族以上の中では盛装だ、というかっこうもあるでしょう。
  たしかに、なにが失礼で、なにが人や場への尊重の表現になるか、ということは、あなたが生きている場所の伝統や文化によるものが大きいので、絶対にこれだ、というものはありません。
  しかし、共通しているのは、
「人に敬意を示し、その場の雰囲気を大切にするために、人は服装を選ぶ」ということなのです。
  それを守れず、ラフな格好でやってくるということは、人や場所の雰囲気に対して失礼というか、要するに「人をナメている」ということなのです。

  それは個性の尊重とかいうことと全然別次元の話です。
  よく、わざとフォーマルな場所に、よれよれのTシャツなどでやってくる若い人がいたりします。本人は反抗や自由の表現のつもりかも知れませんが、そんなものは反抗でもなんでもない。ただの世間知らず、周りが見えてないだけです。ドレス・コード的な発想というのは、人さまへの尊敬、その場への尊重を表現するための礼儀ですから、そのような人は、いま自分がどこにいるのかわかってない、わがままで未熟な人ということになります。場の雰囲気を乱して、人に迷惑をかけながら主張する自由など、何の値打ちもありません。
  個性を尊重したければ、見る人に「なるほど」と思わせるような、おしゃれをしてほしいものです。
  わがままと反抗は違うのです。反抗には、しっかりとした哲学、理念が必要。


3.実際の礼拝では

  では、実際の礼拝はどうなっているのか?
  現在の日本のプロテスタントの教会に限って言えば、実態としては、ゆるやかに、「街中に出かけてゆける格好であれば問題ない」というあたりではないでしょうか。つまり、
ドレス・コードで言えば「カジュアル」にあたります。
  家の向かいのコンビニに行くのなら、ジャージかTシャツの下にノーブラでフラフラ行くような女の子もいるかも知れないけど、たとえば街中に買い物に行ったり、デートしたりするのなら、そういうわけにはいかない。それなりの格好はするでしょう。気取らない関係でも、ふつうのデートなら、いかにも胸元が開いて、お尻がはみ出そうなショートパンツをはいては行かないよね。そういう格好だと、別の目的があるんじゃないかと思われても仕方がない。
  ふつうに町で食事をしたり映画を見たり散歩をしたりするような格好、それでいい、というのが、日本の多くの教会の雰囲気ではないかな。そしてそれは、キリスト教学校のなかでも制服のないところも、同じようなものじゃないか、と思います。もっとも、礼拝以前に学校の校則が厳しいところもあるだろうけど。
  でも、校則に規定がないのであれば、多少背中が開いていても、下品な感じではないのならいいんじゃないかな。最近は、上品なセクシーさを表現する洋服も出てきているから、フェロモン丸出しというんではなくて、上品で健康的なセクシーさならいいんじゃないの?
  あくまで判断する責任は自分にありますから、
ドレス・コードは「カジュアル」、ということを頭に入れておいて、それで考えたらいいのではないでしょうか

  結局、礼拝のドレス・コードも、基本的には先述の「場の雰囲気を乱さない」ということで決まってくると考えていいでしょう。
  人間に対して失礼のないようにするのと同じように、神に対して失礼のないように、という、それだけのことです。人に対してやらないようなことを、神に対してする、というのはおかしいですから。
  宗教的戒律の問題ではなく、マナーの問題です。礼拝という場所を、無作法な場所ではないと思っていたら、そうめちゃくちゃな格好はできないはずです。

  ジャージで教会に来る人はあまりいません。それはジャージを見下しているんじゃなくて、やはりスポーツウェアはスポーツする時に着るのがふさわしいからです。スポーツ選手だって、汗を流している現場を離れたら、ウェアは脱いで別のファッションに着替えてるでしょう? 試合以外でカメラを向けられるときや、人前に出るときは、ドレスアップしている人が多いでしょう。これも、その人が、礼儀をわきまえている、ということです。
  人と会うときというのは、基本的に(質素でいいから)ドレスアップするのです。「ドレスアップ」という言葉の意味は、ドレスを着て着飾るという意味じゃないよ。ラフな格好ではなく、きちんとした格好をする、という意味です。ドレス・コードの発想で服を選ぶ、それがドレスアップ。
  
人と会うとき、あるいはどこかを訪問するとき、ドレスアップするのですから、聖堂/礼拝堂を訪問し、神と会うときにも本当はドレスアップしたほうがいい。質素でいいのです。簡単でもいいのです。伝統を重んじるクリスチャンは、今でも教会に行くときには、自分がもっている一番いい服を着てゆくといいます。しかし、日本のプロテスタントの現状では、そこまでは求められていません。ただ、清潔で、だらしなくなければ、よいのです。


4.セクシーで困るのはだれか?

  そして、セクシーな服というのはむずかしい面もあります。
  ぼくみたいに、娘が三人もいると、女子高生がちょっとセクシーな服着て、「おっ」と目を引いても、自分の子どもが大きくなったくらいの感覚で「おお、おお、成長したナァ」くらいで済むけど、なかには、ものすごく心かきみだされてしまう人もいるからね。

  ぼくの知ってる学校で働いてる牧師で、こんな先生がいました。
  その先生の学校は、もともと男子校だったのに、学校の方針が変わって女子生徒が入ってきた。その高校の礼拝堂は1階席と2階席があって、1年生と2年生は1階席なんだけど、3年生の一部は2階席に座っている。
  で、女子の一期生が入学して3年目。進級した女子たちが3階席に上がる年、年度初めにその先生が「うーん」と唸りながら悩んでる。なんで悩んでるのか聞いたらば……
  「いやー、女子が2階席に上がると、見えないかって心配で心配で!」
  何が見えないか心配だったのかは、みなさんのご想像に任せますが、そこの礼拝堂は2階席の前の仕切りが低いんです。体育館の2階席のようなものだと思っていただければけっこうです。スカートをはいた女の子が座っているだけで、見ようと思えば見えるのだ、と彼は言うわけです。(ちなみにわたしもその礼拝堂での礼拝に参加してみましたが、大したことはありません。相当ノゾこうという強固な意志を持って、望遠レンズでも使わないと、見えない。これは保証します。この学校の生徒さん、安心してください。安心できないかな、そういう教師がいたんじゃあ)

  そういうわけで、格別セクシーな格好をしてなくても、ひとりの牧師がここまで苦しんでしまうという状況がある以上、礼拝でセクシーな格好をしてくるというのは、あまりオススメはしたくないわけです。
  「そんなんスケベオヤジの勝手やろ! あたしらにはカンケーないやん!」
  そのとおり。いや、カンケーないどころか、君たちは被害者です。男のイヤラシい視線の。そして、そういう視線を放置していては、将来的にセクシュアル・ハラスメントの被害者にもなりかねない危険性も否定できません。
  悪いのはイヤラシい視線を送る男たちです。君たちは悪くない。しかし、
被害者になる危険性のことも考えると、あまり男を刺激しないほうがいい場合もあるのです。

  残念ながら、男というのはほとんどが愚かでスケベな動物で、「見るな」と言われても見て、心を昂ぶらせてしまうものなのです。これが現実です。必ずしも犯罪的な意図を持っていなかったとしても、セクシーな女性が目の前にいると、ワクワクしたり興奮したりして礼拝どころじゃなくなってしまう人もいるのです。
  「神に対する冒涜だ」とか「神に対して粗相がないように」とか、男の人はいろんなことを言います。こういう人たちは、根が真面目なので、礼拝でも真面目に冷静沈着でいたい。自分の欲情によって自分の気持ちを乱されたくないと思うのですが、まさかそういうことをストレートには恥ずかしくて言えないから、神さまの名前を使っちゃうのです。よく、「お父さんに叱られますよ!(自分が怒ってるくせに)」と言ったりなんかする、あのすりかえと同じ事です。
  でも、そこをわかってほしい。それほど男とはバカなスケベなんだと、わかっておいていただきたい。わかった上で、わざと男性をワクワクさせるような格好をしてくるなら、それはズルい。悪い子だ。それは男が心を静めて礼拝に専念することをジャマしている。これは一種の迷惑行為だ。それは場の雰囲気を乱す、つまりドレス・コードを破る行為なのです。


5.肌を見せない・見ない人びとの発想

  その点、中東の人々は合理的・現実的ですね。
  約2000年前、イエスの時代のユダヤ教ファリサイ派などは、女性が近づいて来るだけで、目を背けて、避けて通ったといいます。女性を見ることで、自分の妻以外の人に欲情する罪を避けようとしたのね。イエスが実はファリサイ派出身だったという説もあるけれども(前島誠『ナザレ派のイエス』春秋社、2001)、たとえば、
マタイによる福音書5章28節「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」というイエスの言葉は、自分の欲望というものに対する、そういうファリサイ派的な潔癖な感性があったからだと言えなくもないわけです。
  イスラームもアラブ起源ですが、いまでも世界各地のムスリムは、長い服とスカーフを着用して、顔以外の全ての体の部分を見えないようにしています。
  見ることによって、バカな男に余計な気持ちを抱かせる機会を与えない。そのことによって、男は乱れなくてすむし、女も自分の身の安全を守りやすい。実に現実的です。
  そして、(このコーナーの最初にも書いたように)厳重に体を見せないようにした服装の下には、実はセクシー下着が隠れている。いいじゃないですか! 最高です。そうじゃない? そういうセクシーさは勝負する
時、場所、目的のためにとっておく。


6.結論

  というわけで結論は、ベタですが、TPOを考えましょう、ということになります。
  TPOとは、Time(時)とPlace(場所)とObject(目的)をわきまえるということです。
  礼拝とはどういう
TPOであるか。それは、神に出会い、神に祈りかけるという
目的のために集まるであり場所であるということです。本当は神はどこにでもおられて、我々もどこでも祈れるはずだけれども、我々は心が弱いから、一応きちんと場所を決めておいたほうが落ち着く。だから、礼拝堂という場所と、礼拝というを定めています。
  そういう礼拝に望ましいのは、くりかえしになりますが、屋外で人と会うときに望ましい服装と同じ、清潔で、だらしなくない服装です。
人に会う礼儀と神に会う礼儀は変わらない、ということです。

  礼拝とは決して、他者を欲情させて、あなたにヘンな気を起こさせたり、あなた自身を性暴力やそれに類する不快な行為の被害に追い込むような
場所であってはなりません。また、大好きなあの人をゲットするための「勝負」のでもありません。
  セクシーなファッションは、きっとそれにふさわしい時と場所があるのであり、そこでこそ効果を発揮するものだと思います。礼拝ではそのセクシーさは、空振りになるか、あるいは望んでもいない別の効果を生むことになるでしょう。
  たとえ、礼拝のあと、「勝負」する予定になっていたとしても、面倒臭くても着替えるほうが素敵じゃないかな、と、ぼくは思います。

〔最終更新日:2003年9月19日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

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