教師 「キリスト教とイスラームって、仲よくできると思う人」
生徒たち「……」
教師 「いない?」
生徒A「そらムリでしょう。あれだけ戦争やってたら」
教師 「やっぱりそう思うよなぁ。みんなのイスラームに対するイメージは?」
生徒B「ヤバイっしょーやっぱり」
生徒C「自爆テロ、過激派、アルカイダ、ビン・ラーディン……」
生徒D「どことも仲よくできないでしょう、あれは」
教師 「それがさー、キリスト教にも過激な人ってのはいて、テロやったりする人もいるんだよねー。似たもんどうしかも……って、そんな事言っても答になってないか、ハハハ。でも、そういう意味じゃなくて、本当に仲よくしてないのが不思議なんだよねー、イスラームとキリスト教ってのは」
(2003年9月、三十番地教会牧師の学校での授業の風景より)
まず、「イスラム教」ではなく「イスラーム」と呼びましょう。
イスラーム用語はぜんぶアラビア語なのですが、「イスラーム」というのは本来「アル・イスラーム」(アルは定冠詞)で、意味は「唯一の神アッラーに無条件に従うこと」です。
「神に従う生き方」全体のことを「イスラーム」と呼ぶので、何かを信じている心の中の信仰だけではなく、「イスラーム」という生き方があるということです。
もっとも、クリスチャンにとっても「キリスト教」というのは、内心の信仰や教えの内容だけではなく、クリスチャンとしてのライフスタイル全体のことを言うのですから、「キリスト『教』」と言われるのもどうかなぁと思うのですが、こちらは日本に入ってきてからもう数百年たってしまってますし、昔から「ヤソ教」と呼ばれつづけて、それが今は「キリスト教」になって、という言葉遣いの習慣が根付いてしまったので、今さら修正が難しい。
でも、イスラームはさいわい日本ではまだそれほどメジャーではありません。ですから今のうちに「イスラーム」と呼ぶ習慣にしたほうが親切だと思います。
1.同じ神を信じている
【目次】 【パート1】 【パート2にすすむ】 1.同じ神を信じている
2.同じ「啓典の民」
3.キリスト教の対応4.無知と恐怖が敵意を生む
5.侵略が反撃を生む
6.愛するというジハード
7.結び
イスラームによって生きる人を「ムスリム」と呼びます。
ムスリムが信じているのは、「アッラー」という神さまです。
しかし、この「アッラー」というアラビア語を日本語に訳すと「神」になりますし、英語になおすと「God」になります。ヘブライ語では「エロヒーム」とか「エル」という名前が旧約聖書に出てきますが、おそらく同じ中東のセム語系で、語源をたどると同じなのではないでしょうか。
そして、イスラームの聖典である『クルアーン』(かつて「コーラン」と呼ばれていましたが、やはりアラビア語の発音に近く「クルアーン」という呼び方が定着しつつあります)には、旧約聖書でおなじみのアダム、ノア、アブラハム、イサク……などの登場人物が出てきますし、イエスも出てきます。ムスリムはイエスも神から遣わされた方である、と信じています。
つまり、ムスリムが信じているのは、ユダヤ教徒、クリスチャンが信じているのと同じ神さまなのです。
ムスリムは、アラビア語をとても大切にします。なぜならイスラームの創始者である預言者ムハンマド(AD570ごろ)が神の啓示を受けとり、それを人に伝えたのがアラビア語だったからです。神がアラビア語を話す、というわけではありませんが、可能な限り啓示に忠実であろうとすると、それを伝えた人の使っていた言語で理解するのがいちばんいいわけです。
じっさい、イスラームでは「アラビア語の『クルアーン』だけが、本物の『クルアーン』である。翻訳は解説書にすぎない」と言われます。これは翻訳の違いで悩んだり果てしない論争を繰りかえしているクリスチャンにとっては、耳の痛い、傾聴に値する見解です。
そういうわけでムスリムは、神さまを呼ぶときも、へたに翻訳したりしないで、アラビア語で「アッラー」と呼びかけます。
呼び方は違っても、同じ神さまを礼拝し、同じ神さまから遣わされた人びとを信じているわけですから、ほんらい仲違いするほうがおかしいのです。
2.同じ「啓典の民」
イスラームでは『クルアーン』のことを「啓典」と呼んでいます。啓示を記した書物、という意味です。
ところが、イスラームにとって「啓典」とは、『クルアーン』だけではないのです。
ユダヤ教の正典である『ヘブライ語聖書(旧約聖書)』も、キリスト教の正典である『新約聖書』も、イスラームにとっては「啓典」です。そして、ユダヤ教徒もクリスチャンも、ムスリムと同じ「啓典の民」であると言われます。
つまり、同じ神を信じる、同じ「啓典の民」なのですから、ユダヤ教徒、クリスチャン、ムスリムは、姉妹兄弟のような関係なのです。そういうことをムスリムのほうがちゃんと「啓典の民」という言葉で自覚している、ということです。
3.キリスト教の対応
これに対して、キリスト教側では、どのような対応をしているでしょうか。
カトリック教会では、1974年の4月、前のローマ法王パウロ6世が、「唯一神の信仰において、キリスト教とイスラームの間に何ら本質的違いがない」という信念を表明し、同年10月、サウジ・アラビアのイスラームの大長老がヴァチカンに答礼するという出来事があったそうです。(司祭 アンブロージオ 後藤一郎(豊田聖ペテロ聖パウロ教会牧師)、名古屋柳城短期大学「チャペルニュース」第2号[2001.12.1]より、日本聖公会中部教区ニュースサイトより引用)
だから、カトリックでは、イスラームが姉妹宗教であることを公式に表明しています。
プロテスタントではどうでしょうか。
プロテスタントは、無数に教派・団体が分かれており、教派・団体、はたまた個人ごとに見解が分かれているのが現状です。
アメリカ合州国・ブッシュ大統領の有力な支持基盤である宗教右派は、間違いなくイスラームを排撃しています。
しかし、そんなアメリカの攻撃に対して立ち向かい、「人間の盾」としてイラクに赴く牧師はプロテスタントの中にもおられます。そのような人びとは単に、クリスチャンは平和主義だからとか「敵をも愛しましょう」と聖書に書いてあるからとかではなくて、イスラームとキリスト教は姉妹兄弟なのだ、ということを知っておられる方がたくさんおられます。
つまり「プロテスタントとイスラームの対立」とまでは言い切れないけれども、プロテスタントの中の、特にアメリカのある種の排他的・独善的な教派はイスラームをたいへん嫌っており、また現在はそれが石油利権を求めるアメリカの政治と結びついてイスラーム世界に攻撃をかけているという、たいへん残念なことですが、それが現状です。
ただ、それは、決してプロテスタント全体ではなく、むしろ一部の人びとの態度なのです。したがって、アメリカの一部のクリスチャンがイスラームに対して敵対的であるからといって、キリスト教がイスラームと敵対的であることの証拠にはならないのです。
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〔最終更新日:2003年9月21日〕
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