ある教会の牧師が、クリスマス・ツリーを飾り、クリスマス礼拝の案内を教会の玄関先の掲示板に張り出したら、筋向いのご近所さんが牧師に声をかけてきた。「へええー、クリスマスって、教会でもされるんですか?」
牧師はちょっと驚いて、それから答えた。「ええ、クリスマスというのは、もともとキリスト教のお祭りなんですよ」
それを聞いたご近所さんは、たいへん驚いた様子だった。「そうなんですか! 私はクリスマスのような浮かれたイベントは教会ではやらないのではないかと思ってましたよ」
(2003年12月、ある牧師が披瀝したエピソードより)
実はキリスト教の行事
そうです、クリスマスは、もともとキリスト教の祝い事なのです。
しかし日本では、クリスマスがもともとキリスト教の行事だということも知らない人が増えてきました。
もともとの起源を知らなくても、クリスマスにはケーキを食べたり、プレゼントをあげたりもらったり、特別のデートを計画したり、家族でおいしいものを食べたり、家をイルミネーションで飾ったり、かなり多くの日本人がクリスマスを特別な日にしています。
最近では仏教のお寺でもクリスマス・ツリーを飾っていたり、お寺の子ども会でクリスマス・ケーキを食べたり、といったことをやっているところもあると聞きます。
起源を知らないくらいに広がったイベント……。これもすでに日本に「根をおろした」外来文化のひとつの形なのでしょう。
ホンモノのクリスマス?
「教会のクリスマスこそ、本当のクリスマスだ!」と力むクリスチャンの方々がおられます。
「世の中のクリスマスは、ただ騒がしいだけの、商業主義に毒された、享楽的なイベントに過ぎない。教会のクリスマスこそ、本当の、ホンモノのクリスマスなのだ」というわけです。
私は個人的には、商業的なクリスマスが一概に悪いとは言えないと思います。クリスマスにケーキやプレゼントが売れてゆくことで生活を支えている人たちがたくさんいるのです。それにクリスマスだからといって大金を出せる人ばかりでもありません。クリスマスにお金を使うといっても、やはり自分の経済力相応以上のことはできないのです。ささやかに、自分にできる範囲で、自分や自分にとって大切な人を喜ばせる機会があったっていいじゃないかと思います。クリスマス・ケーキならぬ、「クリスマス景気」なんてものがあってもいいんじゃないでしょうか。みんなが生きている社会が全体として経済的に少しでも活性化するということは大切なことではないかと思うのです。
キリスト祭り
ただ、クリスチャンが「本当のクリスマス」と言うとき、そこには確かに世の中一般のクリスマスと大きく違う点があります。
それは、キリスト教の(本来の)クリスマスというのは、イエス・キリストの誕生をお祝いする、というものだからです。
イエス・キリストは、キリスト教においては、人間を救う「救い主」あるいは「神の子」と言われていて、この人がいなければキリスト教は生まれなかったというほど重要な人物です。(なぜ彼が「救い主」であったり、「神の子」と呼ばれるのかは、ここでは触れないことにします)
このイエス・キリストが誕生したことを祝うのが、クリスマスの本来の目的なのです。
だいいち「クリスマス」という言葉も、英語で書けば「Christmas」となり、「Christ(クライスト、つまりキリスト)」と「mas(マス、つまりお祭りあるいはミサ)」が合わさった言葉で、要するに「キリスト祭り」という意味なわけです。
省略して「X’mas」と書く場合があるのも、「X」が、「キリスト」をギリシア語で書いた場合の「ΧΡΙ買アΟ煤iクリストス)」の頭文字なので、要するに「Christ−mas」と書いたのと同じ意味になるからです。
クリスマスの起源
クリスマスの起源については、いろいろ本が出ているので、そちらを参考にされたほうがいいと思います。
『クリスマスおもしろ事典』(日本キリスト教団出版局、¥1,500−)という本がありますが、これがわかりやすく、適度にくわしくクリスマスの起源を説明してくれていますので、オススメ本です。
そこにも書いてあるのですが、クリスマスというのは、一番最初のころのキリスト教では、お祝いされておらず、せいぜい4世紀になってから教会で祝うことが定着してきたようです。つまり、イエス・キリストが死んでから300年近くたって、ようやくイエス・キリストの誕生祝いをするようになった、ということです。
ごく初期のキリスト教会は、イエス・キリストの誕生よりも彼の復活のほうが大事で、復活を祝う行事はいちばん最初のころからあったのだと言われています。
私は勝手に、これは迫害の時代が終わり、4世紀になってキリスト教が公認化されたり、ローマ帝国の国教になったりしたこととも関係があるのではないかと推測しています。
初期のキリスト教信者にとっては、迫害による死がたいへん身近であったことでしょう。それ故に、復活への憧れも強くかきたてられたのではないでしょうか。そんな信者たちの間で、イエスの復活を記念する行事は当初から根強く行われてきたのではないかと思うのです。
その陰で、イエスの誕生をお祝いするような行事は、迫害されていた時代には行う余裕がなかったのではないでしょうか。
あくまで連想に基づいた推測ですが……。
12月24日の夜に生まれたかどうかも、聖書にはイエス・キリストが生まれた日時については何も書いてないので、わかりません。
ただ、キリスト教が広まる以前から、後にヨーロッパと呼ばれる地域のあちこちで行われていた冬至の祭を、キリスト教が取り込んでいったらしいということはわかっています。
冬至というのは、その日を境に太陽の出る時間が長くなり、春を呼びよせる季節ですから、12月を太陽神の復活、または誕生の祭にしていた民族は多かったのです。それらの諸民族をキリスト教に改宗させてゆく過程で、キリスト教会は「それはおまえたちがあがめるべきキリストの誕生のときであるぞよ」と教えつつ吸収していったわけです。
そういった歴史を考えると、あまり教会が「ホンモノのクリスマス」ということを強く主張しすぎるのは滑稽かも知れません。なにがホンモノであるか以前に、クリスマスの日程さえ、便宜上定められていった経緯があるわけですから。
それに、教会で祝うクリスマスでも、確かにクリスマス礼拝というものを行って、イエス・キリストの誕生を祝う儀式をしますが、それが終わると「クリスマス祝会」などと称して、ごちそうを持ち寄ってパーティをしたり、ゲームをやったり、プレゼント交換をしたり……適度に商業主義クリスマスの影響を受けて、楽しくやっている教会が多いのです。
多くの教会では、クリスマス本来の目的も果たしながら、商業主義の影響も受けながら、とバランスを取りながらクリスマスをお祝いしているのです。
そして、やはりホンモノのクリスマス?
というわけで、教会「でも」クリスマスはお祝いします(笑)。
しかし、クリスマスとはもともと教会から始まった行事です。
もしも本来の目的で祝うクリスマスを味わいたいと思うなら、クリスマスに教会を訪ねてみてはいかがでしょうか。
クリスマス・イヴの夜にキャンドル・ライト・サービス(ロウソクに火を灯して行う礼拝)をおこなっている教会はたくさんありますし、クリスマスに一番近いクリスマス前の日曜日には、午前中からクリスマス礼拝が行われているでしょう。そこでは、クリスマスが本来の目的に則ってお祝いされます。
(この文章を書いている2005年は、クリスマスの12月25日がドンピシャで日曜日に当たっていますね)。
最後は教会の宣伝みたいになっちゃったけど、年に一度くらい、初詣に行くような感覚で、クリスマスには教会に足を運んでみるのもいいかも知れませんよ。
〔最終更新日:2005年12月10日〕
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