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 Q. 神さまはなぜ地震や洪水から人間を助けてくれないんですか?
 
  世界各地で地震や洪水といった災害により、多くの人が死傷し、家を失っています。神がこの世を造ったというのなら、なぜそのような災害を、人間によってもう少し復旧しやすいように、抑制してくださらないのでしょうか。「全能の父」とおっしゃるのなら、どうして愛する子たちである人間の命を守ってくださらないのでしょうか……。

(2009年9月、当教会牧師に届いたお手紙より)

 A. それは神さまの責任ではないのです。

 おたずねのご質問は、キリスト教の神学では「神義論(しんぎろん)」と呼ばれている問題に関係しているはずです。「神の義」つまり「神さまは正しい(義しい)のか」という、神に挑戦するような問題です。
 この問題は、旧約聖書の時代から現在にいたるまで、ずっと人類が問うてきた重要で深刻な問題です。今のように、地震や台風の予知技術とか、防災のための工夫とか、そういうものがある現代でさえ、災害は人間の予想を越えて被害を与えるのですから、旧約聖書の時代の人たちにとっては、なおさらのことだったでしょう。
 そしてこの問題は、今なお問われています。ということは、これに対する完全な答を人類はまだ得ていないということになるのでしょう。
 ですから、この問題について、私のような浅学非才な者がきれいに答えられるとは思いませんが、それでも、これまで何度となく色々な人と考えたり話したりしてきた中で、私がいま考えていることをお話ししたいと思います。


神のせいにしても救いはない 

 私は、かつて自分の著書で、「神がこの世の全ての出来事をコントロールしているわけではありません」と書きました(『信じる気持ち はじめてのキリスト教』)。その考えは今でも変わっていません。これは、「世の中の全ての出来事が、神さまのご意志で動いている」と信じている方とは相容れませんが、私はやはりそういう考え方はやめた方がいいと思っています。

 戦争や犯罪といった出来事は、「それは人間の罪である」と言って説明することができます。しかし、地震や洪水といった天災は、人間が原因ではありませんから、説明に困ります(もっとも、人間の責任で起こった戦争や犯罪でも、「なぜ神は人間をそんな罪を犯すものとしてお造りになったのか」という問いも長いこと問われてきたのですが。どうしてこう人間は、自分の責任を神になすりつけるんでしょうね?)。
 古代人は、「それは神が起こしたことである」という説明しか見つけられませんでした。しかし、ではなぜ神はそんな災害を起こして人間を苦しめられるのか。「それは人間が罪を犯しているので、神は人間を罰せられるのである」と古代人は説明しようとしました。その結果、たとえばノアの箱船のような物語が作られました。ノアの時代に神が洪水を起こしたのは、人間の世界に罪が蔓延したからだと書かれていますね。
 南北イスラエル王国の滅亡も、バビロン捕囚も、その後も度重なるユダヤ人社会への侵略や占領も、みんな、イスラエル人やユダヤ人の、神への不信仰、あるいは裏切りが原因だと考えられました。そんな人間の罪を直視し、悔い改めを呼びかけたり、「それでも神はあなたがたを愛しているよ」ということを伝えようとして、イザヤ書やエレミヤ書などといった預言者の書が書かれてきました。

 しかし、それでも問題は解決しません。個々人に目を向けてみると、どう考えても罪人だとは言えないような赤ん坊でも、いとも簡単に災害や疫病によって命を奪われていきますし、いかに信仰深い人でもその信仰によって長生きができるかというと、そうでもありません。むしろ、すばらしい人ほど早く世を去るような気さえします。そんな時私たちは、「神さまは愛する子を早く呼び戻されたのだろう」と言って自分を慰めますが、遺族にとっては、あまりそのような言葉が慰めになるとも思えません。
 何でも神さまのせいにしたい人たちは、「あの人が死んだのは、信仰が間違っていたからだ」とか、「子どもが死んだのは親が罪を犯したせいだ」とか、「あの宗教団体の施設が倒壊したのは、間違った宗教だからだ」とか、なんとでも言います。
 無事に生きている人は好きなことを言えるのです。自分が(自分たちが)生きているのは自分が正しいからだとか、神のご加護の故だなどと言うことができます。その一方で、たくさんの人が理不尽な被害を受けて、信仰を捨てています。「こんなに残酷で不公平なことをする神だったら、信じる値打ちもない」と思って、信仰の共同体から出て行ってしまうのです。信じられなくなった人が出て行ってしまうので、疑問を投げかける人がその宗教団体の中にいなくなります。それでますます教団内に残って生き残っている人が増長するといったことが、あちこちの宗教団体で見られます。


何でも神さまのせいにするのはやめよう

 しかし私は、何でも神さまのせいにするのはよくないことではないかと思っています。何でも神さまがやったことにするのは、ある意味で神さまへの責任転嫁です。
 何でも神さまの行なったこと、としてしまうと、神さまが何を根拠に裁かれるかわかりませんから、いつもビクビクして生きなくてはならなくなります。また、神さまが何を基準に怒ったり微笑んだりするかわかりませんから、「すべては神さまのなすままに」と言って、一見信仰的ですが、実は主体性のない無責任な生き方をするようになる場合もあります。時にはそういう考え方が人間に対して優しいこともありますが、いつでもそういう事をやっていると、人に大変な迷惑をかけます。それが本当に良い事でしょうか?
 そして一番困るのは、そうやって生き長らえている人たちが、自分たちの生き方を神から認められたものだと思い込んで、他の人たちの生き方を非難しはじめることが、時々あります。自分たちが神の代弁者であるかのように振る舞う傲慢な人たちの姿を見ると、神はこういう人たちをはびこらせるために善人を殺したのかと、疑問を抱いてしまうのです。

 ですから私は、この際考え方を変えたほうがいいのではないだろうか、と思います。
 神さまは確かに、ビッグバンに始まる空間と時間の創造を最初に始めた方かも知れません。そして、この宇宙の全ての法則を決めた方かも知れません。そして、私たちを含む生命を生み出す仕組みをスタートさせた方かも知れません。この太陽と地球と、地球の生命の存在すべてが、正に奇跡としか言いようのないくらい不思議で見事なものですから、そのどこかに神の意志が介在したのではないかと考えたくなります。その仕組みが造られる原動力または背景、あるいは意志としての「霊」のようなものとして、神が存在している可能性はあります。
 しかし仮にそうだとしても、たぶんその仕組みが発展し、いくつもの法則に従って様々な現象を生むその過程については、関与しておられないのではないかと思います。
 ある火山が爆発する現象の大元には神が造った法則があるのかもしれません。でも、その火山の噴火によって飛んで来た石にぶつかって死ぬか、それとも間一髪で助かるか、そういったことは全くの偶然であって、神が決めたことではないのではないでしょうか。
 そう考えないと、神は根拠もなく恣意的に、自分の考え一つで人を殺したり、生かしたりする暴君だということになります。私はそんな神を信じたくありません。もしも、本当は神はそういう方だったとしても、そうであるならば、私はそういう神を崇拝する気はありません。「神は最低な奴だ」と思って、信仰を捨てて生きるでしょう。
 しかし、そうではなくて、神は実は細かいひとつひとつのことに関与しておられるわけではないのだ、ということが本当だったら、神を恨まなくてもよくなります。私は神を善い方だと信じたいので、こういうことを考えています。

 災害で死ぬ人は、偶然死に巻き込まれるのではないでしょうか。あの人が死んで、この人が生き残る。それは偶然の結果起こることではないでしょうか。ある人が死ぬのは、その人が神から呪われたからではないし、ある人が生き延びるのは、その人が特に神に認められたからではないのではないでしょうか。
 生き残った者はたまたま生きているのであって、別に優れているからでも、正しいからでもないのです。この人間の力が及ばぬ宇宙と地球の現象の中で、自分が生きている、生き続けているということ自体が奇跡的に珍しいことなのであって、そのことを今生きている人は謙虚に受け止めないといけないと思います。


偶然だが、意味のないことではない

 ただ、「この人が亡くなったのは、偶然の出来事であって、何もそこには特別な意味はないんだよ」と言われても、人間は納得がいきません。それでは、人の死に意味がありません。無意味な死だということになります。そのことに人間は耐えられません。
 もし本当にその死が偶然であったとしても、残された人はその死に意味を見つけないではいられないのではないでしょうか。

 私は、人の理不尽にしか思えない死に、意味を与えてくださるのが、神さまではないかなと思っています。人が死ぬことは堪え難く悲しいことですが、その死がなければ、その災害で死ぬ人を減らすための工夫は生まれないかもしれません。その死があるから、人の命の大切さを知り、二度とそのような死がないようにしようと決意するのかも知れません。あるいは、その人の死が、残された人の絆を深めてくれるかも知れません。そして、同じように大切な人を失った人どうしのつながりを与えてくれるのかも知れません。
 あるいは、こんな私が想像するようなことではなく、もっと予想もつかないような、もっと大きな意義を、その死によって残された人が発見するかも知れません。その死に感謝したくなるようなものが残されるかも知れません。そのような、残された人の心に起こる奇跡のような出来事を引き起こすのが神さまなのではないでしょうか。あるいは、神はそのよう奇跡を起こせるように人の心を設計したのではないか、と思いたくなるのです。
 残された人にそのような作用を起こすために、わざわざ神がその人を死なせたのではありません。死は突発的な偶然の悲劇です。しかし、神はどのような死をも無駄にせず、その死を残された者にとって意味あるものに変えてくださるということを、信じることができるのではないでしょうか。
 もちろん神を信じていない人もたくさんいます。しかし、必ずしも神を信じていなくても、そういう心の動きをする人はいます。その人が神を感じていなくても、そのような奇跡的な心の変化をする可能性があるということに、普遍的な価値があると思います。
 そして、神を信じていない人がそのような心の変化を起こすことはありますが、神を信じようとする人のほうが、そのような変化を起こしやすいのではないかと私は思っています。「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5章34節他)というイエスの言葉がありますが、神を信じたいと願っている人のほうが、救われやすいのではないかと思います。大切な命が奪われたこと自体は悲しみですが、そのあと、そこに神の意志が働く可能性があることを信じれば、時間がかかっても心に変化が起きやすくなるのではないでしょうか。


生きて苦しみ続ける人

 では、災害を生き残ったが、後遺症などに苦しみ続ける人の苦しみには意味があるでしょうか。考えようによっては、死んでしまった人よりも、生き続けるほうがつらいと言えるかも知れません。
 大怪我などをして後遺症に非常に苦しむようになったり、家や家財道具を失って路頭に迷ったり、家族を失って天涯孤独になってしまったりした人はどうなるのでしょうか。
 これも、出来事じたいは神の意志とは関係がないと考えたほうがよいと思います。神がその苦しみを与えたというなら、神が人間を愛しているというのは嘘になります。怪我や病気や障がいや孤独や生活苦は、神が与えたものではありません。そんなものを与える神はいないほうがましです。そんな神を信じる必要はありません。
 神はやはり人間を愛しておられると信じたいのです。ですから、神は私たちの心の中に変化を起こすという形で働かれるのであろうと思います。その人が苦しみを得たのは、偶然の突発的な災いです。しかし、「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)という言葉が聖書にありますが、神はそれを人の愛が働く機会としてくださるのではないかと思います。
 その人が痛み苦しんでくれているおかげで、その人以外の人が痛み苦しまずに済んだと考えることができるかも知れません。その人が家や家族を失ったことは、他の人びとがその人を支えるために愛のわざを行うための機会にさせていただいているのかも知れません。あるいは、肉親を超えた新しい家族とのつながりが与えられる機会になるかも知れません。やはりここでも、私一人の頭で想像できるような事以上の何かを心に起こす原動力と可能性が、人間には神によって与えられているのだと信じたいのです。

 もちろん、こういうことは、当事者以外が本人に対して「その苦しみの中に神の意志があるんですよ」などと言えるような問題ではありません。そんなことは人から言われる筋合いの問題ではありません。
 「神はこの苦しみを、喜びに変えてくださった」と言うことのできる力は、人間の心にちゃんと神が与えてくださっています。しかしそれは、当事者自身が、たいへんな苦しみの時間を費やして発見した暁に、初めて言えることです。
 私も、自分の病気などの苦痛については、今となっては「これも神が恵みとしてくださった」と言えますが、他人の苦痛についてそれを言う権利はないと思っています。しかし、「あなたの苦しみを、神が益としてくださいますように」と祈ることならできるような気がします。しかしそれも、ご本人の目の前ではなく、隠れたところで祈っていたいです。
 時折、神父や牧師ならそれを言ってもいいのだ、それを言ってください、とおっしゃる方がおられます。しかし、今苦痛のただ中にある人に「その苦しみは神の恵みですよ」と言うのにはかなり抵抗があります。そのように言いたくなるような喜びを苦しみを通して得る人がいるのは事実ですが、そのような人も、ある程度時間をかけてその確信をつかんだのであって、苦痛を味わっている最中に「この苦しみは神の恵みですよ」というのは非常に短絡的であり、それは牧師でも言ってはならないことではないかと思います。


早く世を去る人

 それから、残念ながら、そのように苦しみの中から喜びを見いだすことのできるまでの時間を与えられずに世を去る人がいることも確かです。しかし、それもまた偶然であり、知ることのできなかった人が呪われていたわけではありません。
 ある意味、死は苦しみの終わりです。死ぬことによって、人は苦しみから解放されます。ですから、喜びを知らぬ間に死んでしまったからといって、その人の生涯の価値が低いわけでもなんでもありません。もちろん苦しみだけしか知らずに死んでしまう人がいることは悔しいです。しかし、その人が発見できなかった喜びを、残された者が追い求める使命を受け継いだのだと考えることはできないでしょうか。

 また、死が苦しみからの解放だからといって、死に急ぐ人がいることを責めることもできません。「それほど生きていることが苦しかったんだね。本当におつかれさま。もう苦しまなくてもいいよ」と声をかけてあげたくなります。もちろん、できれば今生きている人は生き続けていただきたいと願います。生きていれば、ひょっとしたら喜びが得られたかも知れないからです。ただ、いつその喜びに出会えるかはわかりません。そのために「苦しみを続けなさい」とは、誰も言う権利はないと思います。
 しかし、人間には、苦しみを喜びに変える力が神から与えられています。ですから、それを信じて、今日、明日を生きていただきたいものだと切に願います。

 そういうわけで私は、神が天変地異などから、愛する人間の命を守ってくださることはないと思っています。
 しかし神は、苦しむ人の苦難を喜びに変える力を人間に与えてくださっていると思います。苦しいことが喜びに変わる、絶望が希望に変わる、この救いの奇跡を経験した者が、「神には何でもできる」、あるいは「私はこの苦しみを味わうために選ばれたのだ」という言葉を思わず発してしまうのではないでしょうか。
 奇跡は私たちの心に起きます。それを信じたいと思います。
  

〔最終更新日:2009年9月12日〕

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