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 Q. 神さまはなぜ疫病から人間を守ってくれないんですか?
 
 これまで人類はその歴史上何度もパンデミック(広範囲で伝染病が拡大すること)を経験してきました。そのたびにたくさんの人の命が失われています。
 今も私たちは、新型コロナウイルス感染症というものに苦しめられています。どうして神さまはこんなに人間を苦しめるのでしょうか。どうして神さまはこんな風に疫病が広がり、人が死ぬのを止めてくださらないのでしょうか。「全能の神」と呼ばれるのなら、この災厄を止めてくださってもよいのではないでしょうか。
 神さまがなぜ疫病から人間を守ってくれないのかを教えてください。

(2022年2月、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに悩みつつ)

 A. 守ってはくれませんが、支えてはくれるかもしれません。

▼パンデミックは止められない


 人類はこれまで幾度もパンデミックに襲われてきました。
 たとえば、6世紀にはコンスタンティノープルでペストが大流行したとされていますし、14世紀以降西ヨーロッパでもペストが何度も大流行して、「黒死病」と呼ばれ、街一つ、国一つが滅亡の危機に瀕しましたし、ヨーロッパで亡くなったのが全人口の3分の1とも半分とも言われています。
 1918年には「スペイン風邪」と呼ばれたことで有名なインフルエンザの大感染が起こって、世界の3分の1の人が感染したといわれていますし、2009年にはいわゆる「新型インフルエンザ」という病気が世界中218カ国に広がったそうです(大幸薬品ウェブサイト他より)。
 記録上世界で最も古いパンデミックは、紀元前430年にギリシアで起こっていて、病名ははっきりしませんが、多くて10万もの命が失われたようです。これは当時のギリシア世界の人口を考えると、おそらく驚くべき多さだと言えるでしょう(DDマップウェブサイト他より)。
 そして、この記事を書いている時点で(2022年)、「Covid-19」あるいは「新型コロナウイルス」という疫病のパンデミックに全人類が苦しんでいるという状況です。
 こうして見ると、人類はその歴史上何度もパンデミックに襲われており、神さまがパンデミックから人間の命を守ってくれるということは無いように思われます。

▼パンデミックと聖書

 聖書では、疫病はほぼ100%神から人間に下された罰であるという捉え方をしています。
 「疫病」という単語で日本語の聖書を検索すると、たとえば……
 
「主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の群れに極めて重い疫病をもたらす。」(出エジプト記9章3節)とか、
 
「私は疫病で彼らを打ち、彼らを捨てて、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう。」(民数記14章12節)とか、
 
「そこで主はイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエルのうち七万人が倒れた。」(歴代志上21章14節)
 ……などなど、疫病というのは、ことごとく神さまが人間に与えた罰であると、ヘブライ語聖書(キリスト教では「旧約聖書」とほぼ同じもの)には書かれています。

 神さまが疫病から人間を救ってくれるような記事はないのかと探してみたら、詩編の91編にはこんな記事が見つかりました。
 「まことに主はあなたを救い出してくださる。
  鳥を捕る者の網から
  死に至る疫病から。」(詩編91編3節)

 しかし、それ以外の箇所は全部神さまが疫病を与える話ですし、この91編3節も、要するに疫病が収束するのも神さま次第ということですから、「疫病とは人間にはどうしようもないものなのだ」という考え方を古代人がしていたのだということはわかります。

 もちろん聖書にはこんな風に書かれてはいますが、これはこの「聖書を書いた時代の古代人たちがそう考えていた」ということであって、現代に生きる私たちが同じ様に考えなくてはならないということではありません。
 聖書を書いた人たちは、病原菌やウイルスの存在を知らなかったし、想像すらもしたことが無かったでしょう。この世には微生物というものがいるということを発見したのは、オランダの役人で顕微鏡を発明したアントニ・ファン・レーウェンフック(1632?1723)です。この人は「微生物学の父」と呼ばれ、その後生物学や医学は爆発的に発展を遂げて、今日に至っています。
 しかし、考えてみると、レーウェンフックが1674年に微生物を発見するまで、人類は何万年もの長い間、疫病の原因を神の罰や悪魔の仕業であると考えてきたのですから、気の遠くなるような話です。人類が疫病の原因が天罰や悪魔の仕業ではないと気づいてからの歴史の方がはるかに短いのです。しかし、この科学の発展が証明した通り、疫病の原因は間違いなく微生物あるいはウイルスでしょう。

▼疫病はなぜ起こるのか

 というわけで、疫病は人間の罪のせいだったり、神さまによる罰でもありません。
 それでも、クリスチャンの中には、疫病が神の与えたものだと言う人がいます。「コロナも神さまが造られたもの」と言っている牧師さんもいます。そのように言う人の思想は、ひょっとしたら深遠なもので、私などが理解出来ないような宗教心や思考に基づいたものかもしれませんが、現時点では私にはそういう考えはちょっと理解できないです。
 疫病は神の意志とは関係なく起こる天災のようなものです。あるいは一見自然発生的な災害に見えるような現象では遭っても、実は原因は人為的なものである、つまり人災である面も否定はできないということもあるでしょう。

 疫病というのは、ウィルスや病原菌の活動が活発になって起こることですが、たとえば人間による自然破壊の結果、森が無くなっていって、森で食べるものが無くなった野生動物たちが人間界に近いところまで出てきた。その結果、野生の動物と人間の距離が近くなりすぎて、従来だったら、感染するはずのないウイルスがうつってしまったりする、というようなことも起こっていると、ある学者たちは言います。そして、この人達によれば、そのような環境破壊によるものだからこそ、今後はもっと頻繁にパンデミックが起こるだろうということです。この説が正しいかどうかは私には評価のしようもありませんが、悲観的な予言です。
 もしそうだとすると、パンデミックは人災であると言える可能性もあります。そういう意味ではパンデミックは、人間の罪の結果だといえないこともありません。ただ、それも危険な言い草です。
 誰か加害者を特定できないような、地球的に大規模なレベルでの災害を、「これは人間社会の過ちの結果である」と言うのは、結局「これは人間の罪に下された罰だ」という古代人の見解と同じことを言っているに過ぎません。
 そんなことを言ったところで、疫病に罹患した当事者の「なぜ私がこの病気にかからないといけなかったのか」「なぜあなたが感染しないといけなかったのか」という問いに対する答えにはなっていないのです。

▼なぜ私が感染するのか

 しかし、なぜあなたが疫病に感染するのでしょうか。なぜ私が罹患してしまうのでしょうか。
 そのような問いには答えはありません。「なぜ」という問いには誰も答えることができません。
 もちろん疫学的、医学的な理由はいくらでも学者や医者が説明してくれるでしょう。しかし、「なぜ私が」「なぜ(私の大切な)この人が」という問いには、誰も答えることができません。
 残酷な言い方をすれば、それらはすべて偶然です。そのような問いをいくらお祈りの中で神さまにぶつけてみても、おそらく答えは与えられないでしょう。これは全ての他の病気や障がいや、事故や犯罪被害の場合でも同じです。「なぜ私が」という問いに答えられる人はいないのです。
 「そんなことはお前が被害に遭っていないから言えることだ」と私を非難する人もいるかもしれません。しかし、私はこの文章を書いている時点では確かに疫病には罹患していませんが、いつ感染するかわかりませんし、疫病への感染とは関係なく、「なぜ私がこんな目に遭うのか」と言いたくなるような体験は何度もしてきました。「なぜ私はこんな人生を歩まなくてはならないのですか」と何度も神に問いをぶつけてきました。しかし、答えは与えられませんでした。そして、「そういう問いには答えはないのだ」と悟りました。「答えが与えられた!」と思う人もいないとは限りません。しかし、答えが与えられない人の方が圧倒的に多いでしょう。
 私は「問いをぶつけてはいけない」という意味でこんなことを言っているのではありません。答えは与えられません。しかし、問いをぶつけたくなる人の気持ちはわかるつもりです。

▼「理由」ではなく「目的」

 イエスはヨハネによる福音書の中で、このような問いに答えています。こんな場面です。

 
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目に見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」(ヨハネによる福音書9章1?2節)

 これは生まれつき障がいのある人の話ですが、「なぜこの人が」という問いがぶつけられているという点では疫病の被害者と同じです。弟子たちは、このような症状の理由をイエスに質問しています。これは私たちが「なぜ私が(あなたが)苦しむのか」という問いをぶつけたくなるのと同じです。
 そしてこの時、私たちは全ての苦しみに理由があるのだと考えてしまうのです。しかもそれは何らかの罰ではないか、誰かが神を怒らせるような罪を犯したからではないかという考えに陥ってしまうのです。
 しかし、イエスはこう答えます。

 
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」(同3?5節)

 イエスはこの人の目が見えない「理由」を答えていません。そうではなく「目的」を答えています。罪を犯したから災いが与えられるという、災いの「理由」ではなく、この災いにおいて神が何をしようとしておられるのかということに注目するように、と勧めています。
 しかしここでは、神が直接手を下して何らかの業を行うのだとは書かれていません。その代わりイエスは、「私たちは、私(イエス)をお遣わしになった方の業を」行うのだと述べています。業を行うのは神ではなく「私たち」です。「私たち」というのは、この記事ではイエスとその弟子たちのことを指しています。
 イエスが「私は、世にいる間、世の光である」と言っていますが、「世の光」というのは今の私たちが言うところの太陽のことです。自分が生きている間は自分が太陽だけれども、世を去ると誰も働くことができなくなる、と言っているので、イエスの死後、弟子たちが何もできなくなるということを言っているのかも知れません。あるいは、イエスさえも姿を消すような世界の終わりのことを想定して、イエスはこんな事を言っているのかも知れません。このあたりのイエスの真意は謎に包まれています。
 ただ、ここで大事なのは、神の業を神自身が行うのではなく、イエスを含んだ人間たちが行うとされている点です。イエスの光のもとで、イエスと共に歩もうとする者は、神の業を行うことができると読むこともできるのではないでしょうか。

▼祈ることしかできないのか

 神の業を行うなんて言うと、超自然的な奇跡を一般人が行うことができるという意味に受け取られるかも知れませんが、そういうことは普通の人にはできません。また、そんなことが神の業であるとは言えません。
 福音書の中にはイエスが病気を治した記事がたくさん出てきますが、そのことが現在の私たちに直接大きな意味があることとは思えません。なぜなら、イエスが行ったような奇跡を現在の私たちの世界で実行できるような人はまずいないからです。絶対にいないと言い切ることはできないかも知れませんが、まず世界のほとんどの地域では、こんな奇跡は起こらないでしょう。今の世界では、疫病に苦しみ、痛み、死んでいく人がたくさんいるし、その人たちを助ける奇跡は起こらないのです。
 しかし、治癒の奇跡は起こらなくとも、別の意味の奇跡は毎日どこかで起こっているとも言えます。イエスが癒そうとしたその病気を、今の時代において、懸命に癒そうと奮闘している医療従事者や看護者、介護者、カウンセラーなどの方々、そしてその方々を助け、支える多くの人が疫病と戦っています。この人たちの存在は、かつてのイエスの行った奇跡と同じ存在意義があると言えるでしょう。
 特に、パンデミックにおいては、感染を拡大させないために、身近な人との接触も禁止され、孤立に陥る人もたくさんいます。そのような状況の人を見捨てず、声をかけ、できる限りの処置を続ける人たちがいること自体が、奇跡と呼ぶに等しいことでしょう。

 ただ、残念ながら現在の日本では、医療体制が逼迫し、治療を受けられない人も増えています。症状が出る人、あるいは濃厚接触者が孤立してしまう状況があります。
 そのような時、専門家でもない私たち一般人にできることはなんでしょうか。

 残念ながら今の私には、直接何ができるかということはわかりません。イエスは重篤な病気の人にも、直接触れて癒やすということをしましたが(マルコ1:40?45他)、感染を恐れる私たちにできることとは思えませんし、感染症の場合、イエスのように直接手で触れるという行為はするべきではないとも言えます。
 幸いにして、現在の私たちにはネットによって連絡を取るという手段もあり、完全なる孤立を防ぐ方法も無いとは言えませんが、孤独な高齢者や幼い子どもなど、すべての人がそのような方法を取れるとは限らないでしょう。
 そうなると、私たちには何ができるのでしょうか……。

 安直な答えなのかも知れませんが、祈るということしかできないのかもしれません。神が罹患した人を孤立させないように、一緒に苦しんでくださることをその人に伝えてくださるように願うしか無いのかも知れません。

▼自分のために祈る

 もし私自身が疫病に感染したら、どうするでしょうか。そして治癒することはないと知ったらどうするでしょうか。
 苦しみを覚え、自分では苦しみを取り去ることができず、しかも誰にも助けてもらえず、近づいてももらえないとしたら、私は祈る以外に何もできなくなるのではないかと思います。すがるものが何も無くなったら、神に話しかけるしかないのではないでしょうか。
 神に苦しみや痛みを訴え、何とか助けてくださいと懇願し、それがかなわないと知ると、神を恨み、悪態をつき、怒り狂うでしょう。そして、怒りに疲れ果てると、悲しみのあまり心を閉じてしまうのかも知れません。そして、孤立したまま、悶えながら死んでしまうのかも知れません。死ぬ事自体が唯一の救いになってしまうのかも知れません。
 そのような絶望の果てにいる時、もし私自身が最期まで祈ることができていたら、まだマシなのかなと思います。孤立したまま助からない私の状態は、十字架にかけられて誰からも嘲られ、孤立したまま助からなかったイエスと同じです。絶望状態においては、誰かが一緒に絶望してくれていると思うことしか、自分の心の助けにはならないのではないでしょうか。つまり、絶望においてさえも、自分は独りではないということです。
 キリスト教を信じる人でないとそういうことは起こらないということはありません。イエスであれ、仏さまであれ、誰であれ、苦しむ自分を独りにしない何らかの自分を超えた存在を想定することができれば、その人は小さくても救いを見つけることができるのではないかと思います。
 もし、絶望的な苦しみと孤独の中においてさえも、「自分は独りで苦しんでいるのではない」と思うことができたら、それは小さな奇跡なのかも知れません。
  

〔最終更新日:2022年2月9日〕

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