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 Q. 宗教って、なんだかアヤシくないですか?
 
  「キリスト教の信じている人のなかには、いい人がいることもわかった。クリスチャンがふつうの人だということもわかった。でも、基本的に宗教はアヤシいので、やはり自分としてはあまり近づきたくはないという気がする」
  (宗教科の授業で、キリスト教に対する印象を書いてくださいと言うと、必ずいくつかはこういうコメントが返ってきます)

  「なんかそれ、怪しい宗教みたいやな」
  (慣用句のように「怪しい宗教みたい」という言葉が使われます。実は三十番地キリスト教会の牧師も、日常会話の中で「そんなんまるであやしい宗教みたいやんけ」と口走ってしまって、あとから「あらら、私も宗教者だった」とあわててしまったりします)

(いつでも、こういう風潮にはでくわしてしまうものですね)

 A. キリスト教がアヤシいのは仕方ありません。でも、本当に恐ろしいものが他にあるのです。

宗教をおおいに利用する日本人

  「宗教はアヤシい」……これは日本人の間に、かなり根強く残っている偏見です。
  また同じように広まっている思い込みに、「日本人は無宗教だ」というものもあります。宗教に関わるに日本人のほうが珍しいのであり、宗教というのは深く関わらずに済むものなら関わらないで済ませたい。そう思っている人も多いようです。

  しかし、本当は日本人は宗教的なことをけっこうたくさんやっています。たとえば、歳の初めには神社に初詣に行って、一年の無病息災や家内安全、交通安全、商売繁盛、その他もろもろをお願いしたりします。また、お盆のころにはお墓参りに行き、お線香をあげてご先祖様の安らかな眠りをお祈りしたりします。
  結婚式でもっぱら選ばれるのは神式(神社式・神道式)と教会式(キリスト教式)ですね。人前式というのもありますが、やはり人気があるのは神式か教会式です。2007年初めにタレントの藤原紀香さんが神戸の生田神社で結婚式をあげてから神式の人気があがったみたいですね。
  また、お葬式を無宗教で、という人もあまりいないのではないでしょうか。やはりお坊さんに来てもらって、きちんとお経をあげてもらわないと、ちゃんと亡くなった人の霊が成仏しないような気がしますし、成仏しないまま霊がそこらを漂っているというのも気持ち悪いものですよね。

  そういうわけで、日本人は実は無宗教ではありません。宗教的なことはけっこうやっています。しかし、日本人は自分たちがやっている宗教的なことを「アヤシい」とは思っていません。それはなぜかというと、日本人は自分たちがやっていることが「宗教だ」という意識を持っていないからです。それは「ただの習慣だ」「ただの習俗だ」とたいていの人は言うのです。
  しかし、客観的に見て、それはやはり宗教です。神社や教会やお寺が関わっていることなのですから。けっこう日本人は、人生や季節の節目節目の大切なときに、宗教のお世話になっているのです。
  むしろ、日本人として立派に生活して行くためには、宗教をおろそかにしないということが重要だとされている面もあるのではないでしょうか。商売や家庭のために、神棚に日々のお供えを欠かさない人はたくさんいますし、お墓を守っていくことを家族の大事な役割だと考えている人も多いでしょう。そして、そんな人たちが、結婚式になると、キリスト教の牧師の前で厳粛に頭を垂れていたりするのです。

  ほとんどの日本人は無宗教ではないのですね。ただ、ひとつの宗教に帰依するということはしないのです。いくつかの宗教を、場面場面に応じて使い分けるのが日本人の特徴といえるでしょう。ある宗教団体の自覚的な信徒として入会したり入門したりすることはほとんどありませんが、生活の安定や繁栄、あるいは願望の成就においては、いろんな宗教を利用する、というのが一般的な日本人の姿のようです。
  にもかかわらず、日本人の間には「宗教はアヤシい」あるいは「危ない」という意識が広まっています。一体、どんな宗教が「アヤシい」とされ、それらはなぜ「アヤシい」と思われてしまうのでしょうか。


実は正常な反応

  阿満利麿さんという方は、『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996)という本の中で、日本人にとって宗教には2種類あり、ひとつは
「自然宗教」、もうひとつは「創唱宗教」というのだ、と言っておられます。
  この分類に従えば、「自分は無宗教だ」と思っている多くの日本人がやっているのは、実は
「自然宗教」という形態なのだということになります。特に教祖がいるわけでもなく、明確な教義があるわけでもなく、入信の儀式があるわけでもなければ、はっきりとした信仰心が必要というわけでもない。それが「自然宗教」です。
  これに対し、
「創唱宗教」というのは、教祖あるいは開祖が存在し、明確な教義があり、信者は自覚的な信仰を持ち、入信の儀式も存在する、つまり信徒と信徒でない者をはっきり区別する、そういう宗教のことを言います。
  そして、多くの日本人が「怖い」「アヤシい」「あぶない」と感じるのは、この
「創唱宗教」のほうだというわけです。

  日本人の多くは
「自然宗教」の信者だといいましたが、その「自然宗教」に人びとが求めているのは、要するに日々の暮らしが豊かであり、平和であり、安全であり、幸せであるということです。一言で言えば、日常生活の幸福と安定です。そこにあるのは、現状の価値観の肯定であり、日常をあり方を問い直したり、価値観を転換させたり、といったことは望まれていないのです。
  しかし、
「創唱宗教」はたいていの場合それとは違い、日常のあり方や現状の価値観を問い直したり、ものの見方を転換させたりすることを求めます。多数派の生き方のなかで逆に生きにくさを感じていたり、平凡とされているものの見方に物足りなさを覚えている人にとっては、「創唱宗教」が救いのチャンスを与えてくれるものになります。
  ところが、それゆえに、
「創唱宗教」は、日常生活の安定や現状の価値観の肯定を求めている人にとっては、そのような安定や肯定をくつがえす可能性を秘めた恐ろしいものに見えるわけです。
  となると、日常の平凡な生活に居心地のよさを感じている人びとが、このような
「創唱宗教」を「アヤシい」と思うのは、ごく正常な反応だということになります。そして、このような社会のなかの圧倒的多数派の人びとに「アヤシい」と思われるのは、例外なく「創唱宗教」と呼ばれるタイプの宗教なのです。


アヤシくないキリスト教:自然体の信者はアヤシくない

  もっとも、キリスト教だから
「創唱宗教」だ、仏教は「自然宗教」だ、という宗教ごとの分類はあまり意味がないようです。
  というのも、たとえば家庭がクリスチャン・ホームで、生まれたときからキリスト教の神さまに守られているという信仰の中で育った人は(「ボーン・クリスチャン」などと呼ばれることがありますが)、まるで家の中に神道の神棚がある家庭に育った人と同じように、キリスト教の神が存在しているのが当たり前という心持ちでいます。その人にとっては、キリスト教の神さまが日々の自分の暮らしを守ってくれるので、キリスト教がいわば
「自然宗教」なのです。
  
「自然宗教」としてのキリスト教に包まれて生きているクリスチャンは、自分がクリスチャンであると特に意識しなくても暮らしていけますし、それこそ自分が宗教を信じているなんてことを忘れている場合もあるでしょう。必ずしも毎週日曜日義務的に教会に通う必要も切実に感じていないケースも多く、クリスマスやイースターぐらいは教会に行くけれども、あとは結婚式とお葬式くらいかな、というクリスチャンもいます。そうなると、日本人のいわゆる「葬式仏教」と位置づけはあんまり変わらないわけです。いわゆるキリスト教の国と呼ばれているような外国の人たちにも、そういうパターンはよく見られるようです。

  では逆に、クリスチャン・ホームではない家庭で育った人が、キリスト教の洗礼を受けるときはというと、キリスト教が
「創唱宗教」になっている場合が多いのです。その人にとっては、キリスト教の信仰は自覚的、主体的に選び取ったものです(ここで、「いやその信仰は実は神が与えたものだ」というような論議には入らないことにします。そういう論議はキリスト教の神学のもう少し深いところの話なので、ここではややこしくなるだけなので、入りません)。
  その人がキリスト教に入信し、教会に入会するためには、「私は他のどの宗教でもなく、キリスト教を信じているのです」という「信仰告白」をしなければいけませんし、洗礼を受けるにあたって家族に反対されたり、という可能性もありえます。家族にとっては、その人がキリスト教に入信するというのは、変わらない日常性を破るものですから、キリスト教は「アヤシい」宗教となるわけです。
  この場合、キリスト教は
「創唱宗教」になっています。

  しかし、若いときにそうやって、家族の反対をふりきるようにして洗礼を受けたクリスチャンでも、歳をとって長年クリスチャン生活を続けていますと、クリスチャンであることがあまりにも当たり前になってしまって、本人にとっては
「自然宗教」とほとんど変わらない状態に変質していたりもします。
  こういう状態になると、キリスト教は本人にとっても、空気のように無意識に近いものになり、あえて自分から言わなければクリスチャンということも人にはわからない。何かの機会に「実はクリスチャンなんだよ」と言ったからといって、あまりにもふだん見せている姿が何の変哲もない様子なので、他の人にかもし出す雰囲気も平凡そのもので、クリスチャンだとはいっても、「アヤシくもなんともない」キャラクターになるわけです。


アヤシいキリスト教:キリスト教にはご利益がない

  もちろんクリスチャン・ホームで育った人でも、ある程度(たとえば中学生か高校生くらいに)大きくなると、
「堅信礼(けんしんれい)」という儀式(幼児洗礼を受けた人が、一人前のクリスチャンとして認められる儀式)を勧められたり、また幼児洗礼を受けなかった人も、年頃になると「信仰告白」をして「洗礼」を受けるように誘われたり促されたりするということがでてきます。ですから、やはりキリスト教が完全に「自然宗教」になるということはないようです。
  どんなに、信者の実態としての生活が
「自然宗教」的な色合いを帯びたものになっても、この「信仰告白」「洗礼」という関門がある限り、信者以外の人にとってはあくまでキリスト教は「創唱宗教」であり、したがって日本人の大多数にとっては平凡な日常性を破るものになっています。そして、それゆえに、せいぜいいいところで「外国の宗教」扱い、悪いところでは「アヤシい宗教」とならざるを得ないのではないでしょうか。

  キリスト教は日本では、信者として入信するには縁遠い「創唱宗教」でありつづけている反面、結婚式とクリスマス・イブのコンサート、あるいはバレンタインのチョコ交換程度の行事においては
「自然宗教」的に根付いているといえます。それは結婚式とクリスマス、バレンタインが、家族や恋人の結びつきや安定を願うという、かなり普遍的で日常的な願いをかなえようとするものだからではないでしょうか。
  考えてみてください。それ以外の場面で、キリスト教や教会が、日常の平凡で平穏で幸福な暮らしを守るものとしてアピールする場面があるでしょうか?
  ……私にはどうも思いつきません。
  キリスト教が、無病息災や家内安全や交通安全、学業成就、合格祈願、恋愛成就、子孫繁栄、その他もろもろの人びとの願いをちゃんと吸い上げて、これに応じてご祈祷をしてあげたり、お札を売ってあげたりしているでしょうか。国によってはカトリック教会がそういうことをしていたりもするようですが、日本では例を聞きません。プロテスタントにいたっては、そういう類のことは「ご利益信仰(ごりやくしんこう)」として、むしろ軽蔑し嫌ってきた経緯があります。しかし、実は多くの人びとにとって普遍的な願いであり切実なニーズというのは、実はいまあげたようなありふれた「ご利益(ごりやく)」なのです。

  キリスト教には「ご利益」がありません。「ご利益」を求める人びとのニーズに応えてこなかったのです。ということは、多くの人びとにとって、キリスト教は必要ない、ということになります。キリスト教がなんの役に立つのかわからないので、縁遠いのです。
  キリスト教会が(特にプロテスタントが)いくら伝道に燃え、資金と労力を投入しても、日本で多数派をしめることができなかった理由は簡単です。プロテスタント・キリスト教は、日本の人びとのありふれた願いに答えなかったからです。

  いささか話が飛躍するように見えるかも知れませんが、たとえば、ルターの宗教改革が起こったきっかけとなったカトリックの免罪符(贖宥状)ですが、あれなどは庶民の願いに応えるという意味では民衆宗教としては実に賢明で的を得ていたといえるのです。プロテスタントの牧師のくせにこんなことを書いている私もどうかとは思いますが、あの時、カトリック教会は死後の幸せを願う庶民の願望に実にうまく応えていたといえるのです。日本で仏教が庶民の死後の成仏を保証してあげることに成功したのと同じように、です。
  もちろん宗教改革は宗教改革で一定の勢力を獲得しました。しかし、それはそれで、例えばルターの万人祭司説がギルド社会の職人の自営業者たちの職業倫理に訴えるものがあり、その一方で領邦君主たちの独立への気運と彼のローマ教皇の地位に対する疑問とがマッチしたという、やはりその当時の世の中のニーズとリンクした部分があったからなのです。

  世の中のニーズに応えるから栄えるのであり、ニーズに応えなければ人びとに受け入れられるわけがない。簡単なことですが、これをキリスト教会もわかっておかなければならないのかも知れません。
  日本ではキリスト教は、人びとの普遍的な願望にきちんと応えることをしてきませんでした。だから、キリスト教は日本では多数派を占めることができなかった。当たり前の結果なのかもしれません。そのために、キリスト教はいつまでたっても、多くの人にとっては、どこか縁遠い、何をやっているのかわからない、得体の知れない、つまり「アヤシい」宗教の域を出ていないのではないでしょうか。


アヤシいキリスト教:若気の至りを吸い寄せる

  前項では、「キリスト教は世間の要望を満たしてない。満たす気もない。だからいつまでたっても人びとにとって縁遠い、『アヤシい宗教』に過ぎない存在なのだ」というようなことを述べました。
  ここで、また別の側面から、キリスト教に漂うアヤシさを考えてみたいと思います。

  日本には「若いときに洗礼を受けたが、その後、教会から足が遠のいてしまった」という人がけっこう多いようです。
  日常性に飽き足りず、世の中や大人社会に疑問を持つ少年時代、青年時代の心のニーズとキリスト教の現世否定的傾向は、少なからずマッチする部分があります。キリスト教には、現世を「『この世的』な世界」という言葉で現世をちょっと否定的に見る傾向があるのです。「この世」に対して「あの世」という言葉は、やはり仏教的な死後の世界を連想させるということであえて使わないようですが、この現世に対しては「この世的」と言って見下す傾向が、キリスト教にはあります。

  そもそも、イエス・キリスト自身が、「この世」の人びとによって殺されました。
  この世は金や性や権力などに対する欲望に満ちており、それを実行に移す陰謀や犯罪、淫行、暴力にまみれています。また、どんなに善意や愛情を実行したいと思っていても、結局は自分のエゴイズムを越えることができない憐れな存在が人間でもあります。要するに、この人間の世界は罪にまみれている。そんな罪深い世界を「赦し」、「贖う(あがなう)」ために神からつかわされた神の独り児イエス。彼は人間の世界にあふれる罪を一身に背負い、人間の代わりに独りでその罰を受けて命を捨てることによって、人間の罪を贖った。これ以上の愛があるだろうか。そうキリスト教では考えます。そして、この汚れきった世の中にも、汚れない神の愛が与えられているのだと説きます。
  ですからキリスト教は、一種の現世否定の要素があります。世の中の汚れた部分、醜い部分、そして人間性の恐ろしい面に着目し、それを越えようとします。キリスト教には「世の中こんなものさ」という、消極的な現世肯定の考え方に、まっこうから挑戦する部分があります。「世の中はこんな風であってはならない。もっと世の中は愛と平和が支配するところであるべきだ」と、キリスト教には挑戦する面があるのです。

  世の中の醜さ、汚さがいちばん嫌になる若い時期に、キリスト教のそういう面に希望を見出した人は少なからずいるのではないかと思います。また、そんな若者が集まっているところに、友だちや恋人になってくれそうな人を求めて、連れ立っていった人もいるでしょう。
  しかし、これを親兄弟姉妹などの家族から見ればどうでしょうか。大切な息子が、あるいは娘が、そしてきょうだいが、自分たちを「この世的な人びと」としてちょっと軽蔑したような眼差しで一瞥し、「もっと清らかな、もっと素晴らしい世界があるんだ」と目を輝かせ、あるいは燃えるような恋への期待に胸を焦がせ、いそいそと教会に出かけてゆく姿を見ていると、「いったいこの子はどうしたんだろう?」と心配するのは当たり前です。
  そして、あろうことか、その子が「洗礼を受ける」などと言い出した日には、「うちの子は宗教に染まってしまったァ」と大騒ぎ、ということになるのです。親兄弟からしてみれば、自分のところの息子あるいは娘あるいはきょうだいは、なんだか変わってしまった。それはあの宗教のせいだ、ということになるでしょう。したがって、キリスト教は(別の宗教の場合でも同じことでしょうが)アヤシい、アブナい宗教、ということになるのです。

  しかし、そうやって若い頃、世の中に対して疑問をもったり挑戦したりした人も、そして恋に心をときめかせていた人も、多くの場合、歳をとるにつれて、次第に「人生こんなものかな」という現状肯定をし始めます。それにともなって、キリスト教によって後押しされていた現世否定の純粋さも失われてゆくのです。
  そういうわけで、若いときに親を泣かせてまで洗礼を受けた人が、歳をとってからいつの間にか教会を去り、「あれは若気の至りだった」とか「青春の一ページであった。懐かしい」などと言うのは、当然のことなのです。
  そして、時折、年配のクリスチャンのなかにも、永遠の少年、永遠の少女、と言いたくなるような純粋な人に出会うことがあるのも、このためなのです。少年少女らしいこの世への問い、挑戦、愛が見られるのは、彼ら彼女らの心に、キリスト教信仰が本来持っている現世への問い、挑戦、愛に根ざしたものがあるからなのです。


不器用な宗教

  こうして客観的に眺めてみると、キリスト教が本来アヤシい宗教というわけではないことがわかります。
  日本のキリスト教は、多くの人びとが求めている
日常生活の幸福と安定という要求に応えることもできず、ただ単に若者らしい疑問と挑戦の後押し役になっているだけなのです。
  しかし、そのためにキリスト教は、「よくわからない宗教」でありつづけ、若者の反抗心という大人社会がいちばん扱いづらい領域にもっぱら関わることで、さらに「油断のならない宗教」になってしまっているのです。
  日本のキリスト教は、実に不器用な、行く人の少ない道を歩む宗教になってしまっている、と言えるでしょう。
  私は、一人のキリスト教の牧師として、そしてキリスト教の弁明者の一人としてみなさんに訴えたいのですが、そんなキリスト教が果たしている日本におけるささやかな役割を、世間の多くの人にお認めいただいて、「アヤシい宗教」というイメージをなるべく払拭していただきたく思うのです。
  日本のキリスト教は、「この世」の不正や欺瞞、欲望や暴力に対して「否」をとなえることで、たしかに反体制的な要素は持っているけれども、それは社会を良くするための「愛」から来ているのだということをわかっていただきたいと思います。

  (ここでは、そのような強い「愛」を貫くことができず、結局、例えば第二次世界大戦において、日本の戦争に協力してしまったという日本の大多数のキリスト教会の罪については論じないことにします。それは体制への疑問や挑戦どころか、完全に体制追従の罪に他ならないのですが、それは本来のキリスト教の姿ではないのだという理想論に、とりあえずこのコラムでは立っておきたいと思います)


本当にアヤシい宗教

  さて、若い人(物理的に若い人も、精神的に若い人もふくめて)の、この世の体制への挑戦の後押し役として、またこの世で多少なりともいきにくさを抱えている人の受け皿として、キリスト教が機能しているのではないか、というお話をしてきましたが、そのような若い人の思いを利用して、利益に結び付けようとする、本当の意味での「アヤシい宗教」が存在することにも言及しておかなければなりません。

  実は、いわゆる「カルト宗教」と呼ばれる、本当の意味で人に救いを与えるのではなく、教祖や団体のための金集めに信者を利用する、偽宗教集団の被害者になっているのが、日本人に多いということが言われています。「日本人は無宗教だ」と思っている人が多いのですが、皮肉なことに、そんな日本人から多くのカルトの被害者が出ているのです。
  それは、欧米のようなキリスト教国、つまり、日本人から見れば宗教というわけのわからないものに支配されている国々よりも多いのです。それは、日本人が宗教に深く関わろうとしないあまり、宗教について正しい知識や教養を身につけようとしなかったからに他なりません。宗教に関して無知であるために、本当に人に役立つ宗教と、本当に危ない宗教を見分ける知恵がないのです。

  また不幸なことに、本当は、どこの国の人かに関わらず、宗教的な心のニーズというものはあるのに、日本人は「宗教は危ない」という固定観念のために、素直に自分の宗教へのニーズを表現することができません。誰でも、自分の現在や未来の幸せを祈ってもらったり、孤独や心の傷を癒してもらったり、心の隙間を埋めてもらいたいという欲求は持っているはずです。それを、宗教はちゃんと満たせる用意があるのに、「宗教はアヤシい」という偏見があるために、宗教に助けを求めることができない。しかし、宗教でしか満たせないその要求はしっかりとある。そこで、「これは宗教ではありませんよ。でもあなたの心の飢えを満たしてくれます」という宣伝文句を連呼される、コロリと引っかかってしまうのです。

  日本には、日本人の宗教への無知につけこんで、欧米以上に「アヤシい宗教」「アブナい宗教」が存在しています。みなさんは、それらの「宗教団体」あるいは宗教の名を語らなくても、その手の宗教的な手法を使う連中から、自分をしっかり守らなくてはなりません。
  アブナい宗教、アヤシい宗教と、そうでない宗教を見分ける知恵をきちん持っていただきたいものだと思います。
  アヤシい宗教を退け、教団や教祖の利益とは関係なく、あなたの心に本当に支えになってくれる宗教を見つけてほしいと思います。

  残念ながら、「キリスト教」の看板を揚げている教団のなかでも、なかばカルト化してしまっているようなグループもあります。教会に来たと思ったら、「あなたは信じるか。信じると言ったらそれでいいんだ。それであなたは神さまに永遠に守られる。信仰を拒絶したらあなたは呪われる。さあここでいま洗礼を受けなさい」みたいな脅迫まがいの迫り方をする教会もまれにあります。
  しかし、そうではなく、物事の考え方が理性的で、筋が通っていて、バランスがとれていて、わけのわからないフィクションみたいな話を吹聴するのではなく、口先だけではなく行いや振る舞いで人への愛を実践している、地味だけれども、とってもまともな生き方の模範を示してくれている教会や牧師も確かにいるのです。
  そういう意味では宗教とは結局は人である、ということもできるでしょう。

  あなたが人間として信用できると言える人がいるのならば、そこは信頼してもいい教会なのだと思います。

  

〔最終更新日:2007年2月25日〕

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