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 Q. 神さまはなぜ戦争や犯罪を放置しているんですか?
 
  ナチによる大量虐殺や、アメリカの原爆による広島や長崎の惨劇などによって、たくさんの命が奪われています。神さまはなぜ、このような出来事を放っておられるのですか? なぜ人間がこのような罪を行うときに、全能の力を用いて止めてくださらないでしょうか。どうして見殺しにされるのでしょうか。(2009年9月にいただいたメールより)

(2009年9月にいただいたメールより)

 A. 神さまはいっしょに苦しんでくださっています。

 本当に、なぜ神はなぜ、その原爆投下のボタンを押すことを兵士に許したのか。なぜ投下の装置が故障してくれなかったのか。なぜその原爆が不発弾ではなかったのか。なぜその日の天候が良くて、投下地点を定めやすかったのか……。広島、長崎の地に立つとき、それを苦々しく思います。
 どうして神さまは、惨劇を防ぐような偶然を起こしてくださらなかったのでしょうか。


神は人間に自由を与えた

 天変地異による被災のことを述べたQ&Aでも述べましたが、私は、この世の全ての出来事を神さまが起こしているわけではない、と考えています。
 神は、ビッグバンに始まる時間と空間と生命の創造を開始したかも知れません。しかし、たとえそうだったとしても、あとはご自身の創造した宇宙の物理的な法則と生命のエネルギーに、基本的には任せられたのだと思います。
 ですから、この地球上で人間が引き起こす、残酷なことも、非道なことも、すべて人間の罪の結果であって、そのことに全く神は関与しておられないし、神に責任もないと思います。

 もっとも、「では神は何故人間をそのような罪ある者として創造されたのか」という問いは昔からなされてきました。神に対して製造物責任法を適用して訴えるような発想ですね。そして、そのような問いに対しては、例えば「神は私たち人間に自由を与えた。その自由を使って、自発的に神を愛する者となってくれることを願ったからである」というような説明がなされてきました。
 これは意外に大事なことを教えてくれている話だなと思います。神は人間を、罪を犯すように作ったのではなくて、自由を与えたのですね。自由であるという事は、悪を犯す可能性もありますが、善を行う可能性もあるということです。主体性は人間の側にあります。
 善を犯すように強制されているのではなく、自由意志で自発的に善を選び取って、善を行なって欲しいということなのですね。そうでないと意味がないのです。そのために人間には自由が与えられ、神は人間が善に生きることを待っています。従って、一切の行為の責任は人間の側にある、ということになります。

 ですから、世の中に人間による悪がはびこっているからと言って、それは神が放置しているからだとは言えないのです。言えないというより、言ってはならないというべきでしょうか。人間は本来自由なのであるということは、責任は自分にあるのであり、人間が蒔いた種は人間が刈り取らなくてはならないのです。


神はもはや人間を罰さない

 しかし、それにしても、個々人に目を向けてみれば、なぜこの人が死ななくてはならないのか、と思うような人が殺されます。善良なる大人だけではなく、まだこの世で何の罪も犯してはいないだろうと思われるような子どもも殺される事があります。
 恐ろしい罪を犯す人の命令によって、多くの人の命が奪われ、命令を下した本人はのうのうと安楽に生き続けるというような出来事を、私たちはよく見ます。
 なぜ、神はこのような理不尽な人間の行ないを止めてくださらないのでしょうか。いや、全て人間の自由だと言っても、せめて、これらの犯罪者に罰を与えてくださらないのか。どうしてもこの世で裁かれないのならば、死んでから地獄に落として欲しい。そう思うのが人情というものではないかと思います。
 しかし、少なくともこの世では、悪人には神の罰はくだされていません。人間社会の中で犯罪者として裁かれた人は、それなりにこの世の法に従って刑罰を受けるでしょうが、たとえば他国に原爆を落とす命令をしたある国の国家元首とか、ある民族を全て抹殺せよと命じた指導者などが(まあ自殺した人もいたようですが)、生きている間に罰を受けたという話は聞いたことがありません。裁かれるとしても、負けた国の元首が勝った国のやり方で裁かれるだけで、勝った国の元首は、どんなに残虐非道な殺人を伴う作戦を指示したとしても、ヒーローとして賞賛されます。
 死んだ後ではどうでしょうか。このような大量殺人を命令した罪人は、罰されているのでしょうか。それを確認する方法は現在のところありません。

 そんな風に、世の中に悪や残虐非道がまかり通っており、理不尽な死に方をする人が後を絶たないのを見て、「神はいないのだ」と言う人たちがいます。私はこういう理由から無神論を唱える人の気持ちは大事にしないといけないと思います。こういう立場の人たちは、人間を愛するが故に、神の存在を信じられなくなったからです。
 旧約聖書の創世記には、ノアの箱船の物語があって、人間の罪のために神は洪水を起こして人間を滅ぼそうとしたと書かれています。そして、その物語の最後に、神が「もう私は人間が罪を犯したからといって洪水を起こして罰したりはしない。人間のやることはもともと悪いのだ」と言う場面があります。いったん地上の人間をほとんど皆殺しにしておいて、その直後に「人間はもともと悪いのだ」とは、ずいぶんひどい話です。
 しかし、このような物語を古代人が考えたのは、やはり、古代人も「なぜ理不尽な死に方をする人がいるのか」、「なぜ人間の悪を神は放置しておられるのか」という問題に悩んでいたからではないかと思います。そして、この物語を考えた人たちのとりあえず出した答は、「神はかつて地上を罰せられたが、何度も同じことはしない。今は人間に任されているのだ」ということなのでしょう。
 ということは、この世で残虐非道な政治家を生み出してしまうのもまた、人間の罪の結果なのだということが言えるのだろうと思います。この場合の「罪」とは、何か漠然とした呪いの力のようなレッテルとしての罪ではなくて、そういう政治家が台頭することを許してしまった人間社会の過ちです。つまり、悪い政治家が出た場合には、その政治家だけに責任があるのではなく、そういう政治家を生み出してしまうような社会を作った人間すべてに責任があります。
 神はそれを罰しません。しかし、人間自身がその苦しみを負い続けなければなりません。その苦しみを無くすのも人間の責任です。「神はもはや人間を罰さない」というのは、喜ばしいことでも、憐れみでも何でもありません。見方によっては非常に厳しい、人間への責任の投げかけなのです。

では、神は何をしておられるのか

 では、神は一体何をしておられるのでしょうか。何をしてくださるのでしょうか。また、何もしてくださらないなら、一体何のためにおられるのでしょうか。あるいは、神は本当に存在しておられるのでしょうか。
 苦しみのただ中にあるとき、私たちは神に、「神さま、もしいらっしゃるのなら、助けてください!」と祈り、その祈りが聞かれないと、「どうしてこんなひどいことをなさるのですか!」と怒り、「どうしてこんな状況を放置しているのですか!」と叫びます。そして、最後には「神なんかいない! あんたは本当はいないんだ、そうだろう!」と叫ぶのです。

 ある人は、神は「共に苦しんでいる」と言います。
 エリ・ヴィーゼル(1928〜)というユダヤ人の作家がおられます。ハンガリー出身の人で、ナチス・ドイツの占領を受けて、アウシュヴィッツの強制収容所に入れられ、その体験を書いた人です。
 この人の『夜』という作品の中に、大人2人と子ども1人がいっしょに絞首刑にされる場面があります。それをヴィーゼルたちは真っ正面から見ることを強要されます。3人の死刑囚が絞首刑にされてゆくのを目の当たりに見ながら、ある人は「神さまはどこだ、どこにおられるのだ」と言います。それに答える人はいません。
 3人の首が縄をくぐらされ、彼らが乗っていた椅子は倒されます。大人はすぐに死にますが、子どもは体重が軽いために、30分あまり苦しみつづけます。そして、さっきのある人が再び「いったい、神はどこにおられるのだ」と言います。
 そのときヴィーゼルは、心の中である声がその男に答えているのを感じます。
 「どこだって。ここにおられる——ここに、この絞首台に吊るされておられる」

 イエスは「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫んで死んだと福音書に伝えられています。イエス自身が、自由を奪われ、暴力を受け、嘲笑われて殺されてゆきました。だから、世の中で暴力によって殺されてゆく人の苦しみを、イエスは自分の苦しみとして知っているわけです。
 クリスチャンは、イエスが今も苦しむ人と共に苦しんでいるのだ、と信じます。
 イエスより大きな苦しみを受けて死んだ人はこの世にいません。イエスと同じ苦しみを受けた人はいますが、イエスより苦しんだと言える人はいないでしょう。だから、イエスは誰の苦しみでもわかってくれる、と信じることができます。
 苦しみのただ中にある人、救いを失った人は、それでもその苦しみのただ中にあって、イエスの「あなたは私と共に、今日楽園にいる」という言葉を受け取ります。この言葉は死に瀕した苦痛を味わっているイエスだからこそ言えることです。この苦しみをそばで見ているだけの人には言えません。イエスは、死に瀕している自分をも孤独に絶望させまいと願っておられるのだと信じる事ができれば、苦しみも少しは和らぐかもしれません。

神を殺す罪

 それ以上に私たちが、イエスにおいて認識しなければならないのは、「イエスを殺したのは自分(たち)だ」ということでしょう。
 自分可愛さのためイエスを見捨てた弟子たちの弱さ。世論操作に乗ってしまい、「十字架につけよ」と叫んでいた無慈悲な群衆。社会の安定のためには1人の犠牲はやむを得ないという政治家の計算。囚人を嘲って暴力をふるう兵士たち。残虐な刑罰を見せ物にしながら受刑者をからかう群衆。そうやって、一人の人間を孤独と恥のうちになぶり殺しにした罪は、私たち一人一人にあるという自覚が必要なのではないかなと思います。少なくとも、イエスを信じ、イエスについてゆくと標榜するクリスチャンなら、そういう自覚が要るのではないでしょうか。
 クリスチャンの中には、「ああ、イエス様が私たちの罪を担って十字架にかかってくださった」、「ああ、神さまが自らの子を私たちの罪の為に犠牲にしてくださった」、「ああ、私たちの罪は赦された」、「ああ、神さま、イエスさま、ありがとうございます」と喜んでいる人がたくさんいますが、その前に自覚しておかなければならないのは、「あのイエスを殺したのは私なのだ」ということです。
 もちろん、私という個人は2000年前のイエスと同時代に生きていたわけではありません。しかし、イエスを殺すに至った人びとの罪は、今私たちが犯しているのと全く同じ罪なのです。逆に言うと、「イエスがせっかく尊い命をささげてくれたのに、私たちはいまだに同じ罪を犯し続けている」ということです。
 つまり、何の解決にもなっていない。イエスの死を人間が無駄にしつづけているということです。たとえて言うならば、昨日も今日も、クリスチャンは、そしてクリスチャンを含めて人間は、神を殺し続けているのです。

 イエスがもし本当に人間の罪のために死んでくださったというのなら、その死を無駄にしないために、私たちが即時に悔い改めなくてはなりません。自分たちが生きているこの社会を暴力のないものにするために努力しなくてはなりません。
 戦争のない世の中にするにはどうすればよいのでしょうか。戦争というのは、物理的に武力を行使することだけを指しません。経済政策も、情報操作も、その他あらゆる方法や道具を使って、国々は日夜戦争をしています。どうしたら、全ての人が共存共栄するためにあらゆる政策を投入するということができないのでしょうか。
 あるいは、犯罪のない世の中にするにはどうすればよいのでしょうか。犯罪を犯す人にも人の心があります。犯罪を犯すことになってしまうまで、その人を追い込んだものはなんでしょうか。人の心に悪を植え付けたものは何でしょうか。あるいは、悪のエネルギーは先天的なもので、人間はどこかでそれを安全に解放する方法を用いなければいけないのかもしれません。

 戦争や犯罪をなくすためにどうすればいいのかを、ここで結論づける力量は私には到底ありませんが、少なくとも一人のクリスチャンとしてはっきりさせておきたいのは、神がこの世の戦争や犯罪を放置しているのではなくて、象徴的な言い方になりますが、人間の暴力が日夜神(イエス)を殺しているのだということを自覚しなければならない、ということです。
 そして、この問題に解決を与えるのは、いつあるかもわからないような神の介入ではなく、人間の努力しかないということです。
 もし、神に力添えを祈り願うとするならば、私たちが期待することができるのは、私たちの心の深い底から永遠の平和と安全への願いを湧き立たせ、それを私たちが自らの力で実現するために、自らの微力を精一杯尽くすことができるように、私たちの心をお支えくださいと祈ることができるのみでしょう。

追記

 最後に、問題の解決は人間の努力でしか与えられない、と述べましたが、1つの事例としてドイツの牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906〜1945)のことをご紹介しておきます。
 この人はヒトラーに率いられたナチス・ドイツが、ユダヤ人を虐待し、周辺諸国を侵略する状況を目の当たりにして、ヒトラーを批判し、ユダヤ人の亡命を支援し、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(映画『ワルキューレ』でトム・クルーズが演じた人)などによるヒトラー暗殺計画に加わったために、ヒトラーの自殺のたった3週間前に強制収容所で絞首刑にされた牧師であり、神学者です。
 ボンヘッファーが神学者として20世紀を代表する人物であったことを否定する人はまずいません。しかし、彼がヒトラー暗殺計画に加わったことについては、賛否両論があります。というのも、みなさんもご存知の通り、聖書は「汝、殺すなかれ」あるいは「剣を取る者は剣で滅びる」と書いてあるからです。
 いくらヒトラーが邪悪で残虐な権力者であったとしても、キリスト者の抵抗はあくまで非暴力であるべきで、暗殺計画などとんでもない。そういう考えの方がおられることも事実です。
 ボンヘッファーは、マハトマ・ガンディーの思想とも出会っており、非暴力的抵抗のことも知っていて、ここから影響も受けたとされています。しかし、彼は「善を選ぶことが不可能な状況で、より大きな悪を避けるために、より小さな悪を選ばないことは、逃避である」と考え、「車にひかれた犠牲者に包帯をしてやるだけでなく、車そのものを停める」ために行動を起こしたわけです。
 「小さな悪」を選ばず、ヒトラーのやることを放置したら、もっと「大きな悪」に加担することになる、それをボンヘッファーは恐れたのでしょう。
 ボンヘッファーは、「相手が極悪非道の独裁者なら、殺人は許されるのだ」とは考えてなかったと思います。彼は自分のやることが罪であることを自覚しながら、より「大きな悪」を停めるためにギリギリの決断をしたのではないかと思います。
 ボンヘッファーのしたことは、少し極端な例に見えるかもしれませんが、今もなお、戦争と犯罪と搾取という暴力に満ちたこの世界のなかで、それにクリスチャンがどう対処してゆくのかについて、大きな問題提起を読み取ることができるのではないでしょうか。

  

〔最終更新日:2010年1月17日〕

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