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 Q. 宗教なんかないほうが世界は平和になるんじゃないですか?
 
  このQ&Aで書かれていた宗教戦争の理由は、なんとなく理解が出来たのですが、でもなんとなく腑に落ちない気がしてならないのです。
  だって、彼らはとても熱心に宗教を信仰してそれがゆえに戦争に巻き込まれたりしているわけで、宗教がなければ彼らは死ななくてもよかった。
  そう考えると、そんな間違って信仰してしまうような、洗脳されてしまうような宗教なんて、元はいい教えだったかも知れなくても、なかったほうがみなの幸せになったのではないでしょうか。
  それか、その宗教を教える人たちからして間違っているのではないでしょうか。
  そんなんでいいんでしょうか。

(2004年9月、三十番地キリスト教会に舞い込んできたメールより)

 A. 人間は「宗教」やめられないのです。

  これは「宗教とは何か」という根本的な問題にかかわっているので、なかなかうまく説明できるかどうかわかりませんが……。

  ちょっと社会学的、あるいは心理学的に、「宗教」という現象をとらえてみると、要するに「集団への帰属意識」あるいは「群集心理」というやつのバリエーションに過ぎないものであることが多かったりするのです。
  いま世の中で起こっている「宗教」を基にした紛争と思われているものは、実は教えの内容にしたがってとか、信仰の違いからとかいうよりも、早い話、「宗教」という名の集団心理、群集心理で人がわーっと動いてしまっているという現象に過ぎない場合が多いのです。

  「宗教」以外にも「宗教的」な現象というのはあります。
  このような大人数で何かを礼拝したり、歌を歌ったり、感情を高揚させたり、一致団結して動いたり、敵を悪魔呼ばわりして「聖戦」を戦ったり、自爆攻撃を試みたり……といったことは、実は「○○教」などといった名前のついている、いかにも「宗教」でなくても人間が歴史上よくやってきたことなのです。
  たとえば、ヨーロッパの歴史など学んでいると、まるでキリスト教は悪魔のような残虐な宗教のように感じますが、あれは、ヨーロッパが長い間キリスト教でまとめられていたからそうだというだけのことなのであって、宗教の力が弱まって、たとえば共産主義が出てきても、共産主義は自分たちの組織をまとめるために、ちょっとでも反逆する人間を徹底的に粛清したり、強制収容所送りをしたりしてきたし、ナチス・ドイツはアウシュビッツなどの収容所でユダヤ人に対する民族抹消政策を実施しました。
  無宗教だと自分では言ってる日本人でも、たった60年前には、「進め一億火の玉だ」と一致団結して、「国威発揚」とか言って「大和魂」や「日本精神」を高らかにうたいながら、天皇陛下の御心にこたえるために特攻隊で敵艦につっこみ、死んだ兵士は「靖国の御霊」となって国を見守るとされていたわけです。どんなに戦局が敗色濃くなっても、いつか「神風が吹く」と信じ込んでいた。戦後になってから、「あれは軍部から強制されたから仕方が無い」とか言ってる人もいるけれど、もとはそうだとしても、じっさいにみんな心底から神風とか信じきっていたのは事実なんです。
  十字軍や魔女狩りなどは「キリスト教」という「宗教」の名のもとで行われました。
  血の粛清は「共産主義」によって行われてきました。
  ユダヤ人虐殺や南京大虐殺は、ドイツや日本の「民族主義」が根底にあります。
  自爆テロや特攻隊のような自殺攻撃を見ると、追い詰められた集団の「宗教(イスラーム)」も「民族主義(日本精神)」も似たような行動をとるのだとわかります。
  北アイルランドと英国の紛争や、インドとパキスタンの紛争は、「カトリック」と「プロテスタント」、「イスラーム」と「ヒンドゥ」という「宗教」だけでなく、「民族対立」と「宗教対立」が全く一体化しています。
  アメリカが平気で他国に核兵器を落としたり、空爆を行うことができるのは、「資本主義」「自由主義」「神をアメリカを祝福する」という信念からくる「国家主義(アメリカ中心主義)」です。
  先日、日本サッカーが中国に勝利したときに、中国人サポーターが競技場周辺で「小日本、打倒」を唱えて騒動を起こしましたが、あの熱狂も一種の宗教的現象を感じさせます。あれは「愛国心」という名の宗教かな?
  というわけで、「宗教」という看板がかかってなくても、人間というのはいたるところで一種の「宗教的な現象」を起こしているのです。

  「なぜ、そうなるのか」ということまでは、私にはわかりません。
  しかし、人間は社会を構成すると、そういう危険な性質を持っている動物だということは確かです。
  そして、どうも、個人がしっかりと自分の自我と主体性を持っていないと、ついつい、この集団に属して埋没することへの楽さ、というか快感に溺れてしまいそうになるようなのです。
  たとえば、「われわれはアメリカ人だ」とか「私たちは日本人だ」とか、小さなところでは私の住んでいるところに近くでは「どうせぼく大阪人ですから」とか、個人としての「わたし」ではなく、自分がどこに属しているのか、ということで、自分の存在を確認する人が実に多いのです。
  また、経済的に行き詰まったり、主義の異なる他国が不穏な動きをして安全を脅されそうな予感がするときなど、将来の先行きが不安な場合も、人はその社会をいちばんまとめやすい原理で一致団結して固まります。これは日本人であるとか、なに人であるということと関係がありません。どこでも起こる現象です。
  その、どこでも起こりうる危険な現象において、その社会に属している人びとをいちばんまとめやすい統一原理が、たとえば「優秀なるゲルマン民族よ」とか「ニッポン民族の名において〜」とかいう掛け声であれば、これは「民族主義」や「国家主義」ですし、それが「ゴッド・ブレス・アメリカ」とか「アッラー・アクバル」とかいう掛け声だったら、「宗教」なわけです。
  そして「宗教」でまとまっているからと言って、その宗教の教えを信者がみんなきちんと理解しているかというと、そうではありません。ほとんど聖書なんか読んでもいないくせに「オウ、ゴッド!」とか言ってるわけです。

  そうなると、「宗教がなければよい」と、簡単に言って問題が解決するわけではない。
  なぜなら、「キリスト教」とか「イスラーム」とか、そういうはっきりと「これは宗教だ」とわかるものだけで人間集団が狂うとは限らないからですし、「宗教があるから人間が狂う」わけではないからです。
  そうではなくて、
もともと人間は集団で狂いやすい傾向を持っているのであって、それを一方向に走らせる原理が時に「国家主義」であったり、「民族精神」であったり、「愛国心」であったり、その他いろいろ「○○主義」だったり。そして、時として「宗教」であったりする、というだけのことだからです。
  
人間とは本質的に、打って一丸となるとたいへん危険な存在なのです。

  それでは、どうすればいいのか。
  宗教であれ、宗教でなくても、なんとなく集団でわーっと行ってしまう傾向、あるいは自分たちの集団こそが正しいという思い込み、そういう傾向全般に対して、ちゃんと距離をとることができる、しっかりとした自我を持てるよう努力をするということしか、今の私には思いつきません。
  でも、それは大多数の人間にとっては難しいことのようです。そういうことができていたら、とっくに地球上には平和が来ているかもしれません。
  したがって、人類がこの手の群集心理から自由になって、本当に平和を築くことができるのは、不可能だという権利はぼくにはありませんが、かなり遠い未来になるんじゃないかなぁと思います。

  それでも、「宗教」を信じながらも、自分の属している宗教集団に埋没して「打って一丸となる」ことなく、自分と神さまとの関係を、落ち着いた心で見つめている信仰者も、さがせばたくさんいます。
  同じ宗教を信じていても、実は信仰理解は人それぞれなのだ、ということをちゃんとわかっている人も、本当はたくさんいます。そういう人は、「自分が正しい」とか「おまえは間違っている」とか、決め付けたり裁きあったりはしません。
  希望が全くないわけではないのです。

  

〔最終更新日:2004年9月10日〕

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