義ってなんですか~人間の愚行と神からの和解


 2022年3月6日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 受難節第1礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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説き明かしライブ録画(約27分)


ローマの信徒への手紙3章21-26節

(旧約聖書:新共同訳p.277、聖書協会共同訳 p.272)


日本聖書協会の聖書本文検索をご利用ください。
 https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html



▼レントに入った

  おはようございます。今日は「レント」の最初の日曜日です。イースター(つまり復活祭)の前の40日間、4めぐりということで日本語では「四旬節」と言います。今年はイースターが4月17日で、今年のレントは3月2日(水)から始まりました。この3月2日がいわゆる「灰の水曜日」という日で、教会によってはおでこに灰で十字架を書いてもらったりする行事が行われますね。
 これから4月17日まで、このイエス様が亡くなったことの悲しみ、痛みをしっかりと心に刻み、喪に服す。そして、イエス様がそのために死ぬことになった私たちの罪を深く悔い改める時を過ごすわけです。
 悔い改め。私たちが悔い改めなくてはならない罪とは何か。それはまずは第1に戦争でしょう。
 いまウクライナでは多くの人が戦いに命を落としています。生きている人も不安と恐怖の中に叩き込まれています。
 誰が悪いということは国際政治では単純には言えないけれども、それ以前に戦争は絶対悪だと、まっぴらごめんだ、即時撤退しろと、それが平和の神の求めることであろうと思います。
 「剣をとる者は剣で滅びる」というイエス様の言葉そのままです。この戦争でイエス様はどこにおられるのか。それは戦場で死んでゆく双方の兵士、民間人を含む全ての人と共におられることでしょう。
 暴力によって殺されたイエスが、暴力によって殺される人に寄り添っておられる。当然のことだと思います。
 いま私たちがレントに悔い改めなくてはならないとすれば、こんな戦争を起こしてしまう人間のひとりであること、そんな世界の構造を作ってしまった人間のひとりであること、「目には目を、歯には歯を」を当然のこととしてしまうような政治の論理を許してしまってきたこと、そして、このようなことを通して神様を裏切ってしまっていること。それを悔い改めないといけないでしょう。
 そして、今、ウクライナで苦しみの中にあるひとりひとりの人が一刻も早く平和な暮らしの中に戻れるように祈らないといけません。
 もちろんウクライナだけではありません。ミャンマーでは国の軍隊が自分の国の国民を虐殺するという、とんでもない暴挙に出ています。シリアでもパレスティナでも、たくさんの暴力が振るわれています。他にも子どもも大人も苦しんでいる地域はたくさんあると思います。
 みんな人間の罪です。悔い改めなくてはいけません。

▼贖罪論がわからない

 先程、レントというと、イエス様が十字架にかかった日のために喪に服す期間、そして悔い改めの期間と言いました。イエス様は人間の罪のために十字架にかかったとよく言われますけれども、そもそもイエス様はなんで十字架にかかったのか、「罪」とはどういうものなのかという基本的なところを、今日は考えてみたいんですね。
 イエスが十字架にかかって死ぬことを「受難」と言います。受難、難を受ける。困難な目に遭う。苦しみを受けるという意味ですね。
 英語では「パッション」と言います。頭文字を小文字にして一般名詞にしますと「情熱」という意味になりますけれども、頭文字を大文字にして「Passion」という固有名詞にしますと「受難」になります。
 なんでイエスは受難したのか。
 これについては実はいろいろな考え方がありまして、それぞれの考え方をする人たちが自分は正しいと思っているので、収拾がついてないような状況です。
 ひと言で言うと「イエスは私たちの罪の贖いのために死なれた」と言いまして、「罪の贖い」ですから「贖罪論」と言います。けれども、その「贖い」という言葉をどう解釈するかで、結構色んな人が色んなことを言っている状態です。
 「贖う」というのは、身代金を払って犯罪者を買い戻すという意味があります。そして、イエスは十字架で亡くなることによって、その身代金を払って、私達を罪や死から買い戻したのだと言われるわけです。
 けれども、この説明だけでは、何のことやらさっぱりわからないのではないでしょうか。私だったら、この説明ではよくわかりません。

▼罪や死からの救い?

 罪や死から私たちを買い戻すと言いますけれども、身代金を払って買い戻されるということは逮捕されているということになります。すると、罪や死というものがまるで生き物みたいになるけれども、それがどういうことなのかわからない。
 あるいは、よく「罪の報酬は死である」(ローマ6.23)とか、今日と同じローマの信徒への手紙の6章にも書かれてあったりしますけれども、これは人間が罪を犯したから死が与えられたという理解ですよね?
 アダムとエバの物語はそういうことを言っています。アダムとエバが神さまとの約束を破ったから、死が与えられてしまった。人間は永遠に行きられなくなってしまったと。
 しかし、死というのはそんなに悪いものなのか。生物学的には、死というのは生命の生み出した偉大なる知恵なんだそうですね。死があってこそ、老朽化した細胞が退場していき、新しい細胞が生まれて世代交代し、常に個体が新しい状態に保たれる。
 細胞レベルだけではなく、個体のレベルでも同じことが言えます。生と死は順番巡りです。
 それに、死という締切があるからこそ、人生の本当の目的、自分の存在意義というものを自覚できるということも言えるのではないか。
 そうなると、死は確かに恐ろしいけれども、死に方にもよるけれども、もし穏やかに死ねるのなら、死は必要なことなんじゃないか。じゃあ死から救われなくてもいいじゃないかと考えることもできます。
 あるいはそもそも十字架というのは、イエスという一人の人間が、多くの人の暴力的な不満を解消するためにスケープゴートとして処刑されたと捉えることもできるわけで、そんな血なまぐさい事件が、なんで「身代金」という穏やかな表現でまとめてしまえるのか。
 こんな風に、考えれば考えるほど疑問が次から次へと湧き上がってくるわけです。

▼ちゃんとした関係

 で、いろいろ考えた結果私は、これは今日読んだ聖書の箇所にある「義」という日本語が鍵になるのではないかと思いました。聖書の解釈としては邪道かもしれませんが、ギリシア語ではなく日本語です。
 ちなみにギリシア語ではこの言葉は「ディカイオシュネー」と言って、ひと言で言うと、法廷で「この人は正しい」「正当である」と認められるようなイメージです。それを日本語では「義」と訳しています。
 昔、他のとあるキリスト教学校の授業を見学に行く機会があって、その学校の先生が黒板に大きく「義」という漢字一文字だけを書いて、「義とは……」と難しい話を高校生にしていたのを見たことがあります。生徒さんたちは、まるで台風のあとの田んぼの稲穂みたいに、バターっと寝てました。
 でも、人のことはそんなに偉そうには言えません。今の私の授業でも、時々は台風のあとの田んぼになることがあります。来年度はそういうことにならないように色々と仕掛けを作ろうと思ってますけれども……。
 それで、その「義」とは何かなんですが。いろんなサイトを見ても、「義」は「義」としか書いてないものが多いです。非常に不親切だと思いますし、これはひょっとしたら書いている本人も実はよく分かっているとは言えないんじゃないかといぶかりたくもなります。
 けれども、結論から言うと、この「義」というのは、「ディカイオシュネー」というギリシア語に対しては、なかなかいい訳語だなあと思ったのです。
 この「義」を理解するためには、「義」の反対の「不義」という言葉から考えるとわかりやすいような気がします。
 「不義」というのは人と人の関係の状態のことを指すときによく使いませんか。不義な関係というのは、嘘があったり、不誠実だったりする歪んだ関係のことです。そうすると、その反対の「義なる関係」というのは、嘘のない、誠実で真っ直ぐな関係ということです。
 要するに「義」というのは、超カンタンに言うと「ちゃんとした関係」ということです。

▼的はずれ

 そんな風に読むと、今日の聖書の箇所もある程度はわかりやすくなるんじゃないでしょうか。ここでは何度も「義」という言葉が出てきますが、これを全部「ちゃんとした関係」という言葉に読み替えるといいんじゃないでしょうか。
 「神の義」というのは「神のちゃんとした関係」。「義とされる」は「ちゃんとした関係にされる」。「義を示す」というのは「ちゃんとした関係を示す」という風にですね。
 そうすると「罪」という言葉とのつながりも、ちょっとイメージがわきやすくなります。
 そもそも「罪」というのは、個々のこまかい、「あれをやっちゃだめ」「これをやっちゃだめ」というような罪のことではないと言われます。もちろんそういう罪を表している箇所も聖書の中にはあるんですけれども、ここでパウロが言っているのは、もっと大きな意味で「的はずれ」という意味の言葉です。「罪」という単語の元の意味は「的はずれ」だよという話は聞いたことのある人も多いと思います。
 何から的はずれになっているかというと、それは人間本来のあり方から外れているということです。じゃあ、的はずれではない、的を射た生き方とは何なのかというと、それが神さまと「ちゃんとした関係」を結んでいる。つまり「義」の状態で生きるということなんですよね。

▼和解金は要りません

 というわけで、「罪」というのは、神さまに背を向けている人生、神さまとの関係が壊れてしまっている「不義」な状態ということです。それ自体が悪いことだ、という意味ではなくて、単に「的はずれ」な状態なんですけれども、この「的はずれ」のせいで、結果的にはそこから悪い行いや思いも出てきます。
 というのは、神を見失っているということは、神の愛を見失っているということですし、目の前の人間を神の造られた、神に愛された人だということも忘れるということですから、そこから愛の欠如、他人に対する憎しみ、妬み、恐怖、圧迫、差別、搾取、そして戦争など、ありとあらゆる人間性と命を損なう暴力が出てきます。
 ところが、今日読んだ聖書の箇所で書かれているのは、そういった神さまとの「不義」な関係を「神の恵みにより無償で『義』とされる」と。つまり「神さまの方から、タダで関係修復をしてくれようとしている」ということなんですよね。和解金を払わなくていい。タダですよということです。
 本来は人間の側が神さまから離れていっているわけです。それを象徴的に表しているのがさっきのアダムとエバの物語で、あれで神さまとの「義」の関係、「ちゃんとした関係」が切れてしまっていたと。だから和解金を払わないといけないのは人間の方ですよと。しかし、これをチャラにしましょう。和解金は要りません。タダで和解しましょうというわけです。
 ……ところがですね、「タダで」と言っていますが、本当はタダではないんですね。タダほど高いものはないと言いますけど、実は別の形で身代金は払われているわけです。一体誰がどうやって払ったのか。
 ここで、キリストによる「贖い」の死という考え方が出てくるんです。

▼バーベキューが好きな神さま

 ここから先は古代ユダヤ人独特の儀式の話なんで、ちょっと我々の感覚としてはついていけなくなってしまう面もあるんですが。
 古代ユダヤ人というのは大昔から、人間は罪深い、つまり不義のために、死んでしまわないといけないと考えていました。
 実際、旧約聖書を読んでいると、人間の側が神を裏切って、その報いとして罰を受けて滅ぼされましたという話がたくさん出てきます。民が神を裏切る。神は怒って民を滅ぼす。やがて赦す。愛する。しかし民はまた裏切る。すると神は怒って民を滅ぼす……この繰り返しが旧約聖書では延々と続く場面があります。
 これは実際には、色々と戦争や災害でたくさんの人が死ぬようなことが起こるのを、神がお怒りになっているのだと古代人が解釈したんだろうと私は個人的には思っていますけれども、古代のユダヤ人たちは、そんな神の怒りの原因は、私達が罪深いからだ、つまり神との義なる関係を裏切ってしまっているからだと、そんな風に解釈していました。
 そして、人間はなだめの供え物をして、神と和解しようとします。関係の修復です。
 具体的には、動物をいけにえとしてささげます。神さまは肉食だと考えたわけですね。だから、カインとアベルの物語で、肉をささげたアベルのほうが評価されるという物語もあるわけですけれども、とにかく動物をささげます。
 羊や子牛や鳩などの喉を切って、血を祭壇にふりかけて、そして灰になるまで焼き尽くします。だから、神殿の祭壇の周りは、それはもう美味しそうなバーベキューの匂いがプンプンしたでしょうね。
 そうやって、人間の身代わりとして動物の命を捧げる。これがユダヤ人の言う「贖い」です。祭壇で殺される子羊が、人間を罰から逃れさせるための「身代わり」なわけです。

▼身代金は代理の方が払ってくださいました

 そして、最初のイエスの弟子たちはユダヤ人ですから、イエスという愛の人がなぜあんなに無残な殺され方をしなければならなかったのか。それを一生懸命悩んで、ヘブライ語聖書を読み返して、あのイエス様は自らをいけにえとして、その命をささげてくれたのだと、ユダヤ人の風習を通して解釈したわけです。
 神との関係を修復するために、何度も何度も何百年も、古代のユダヤ人はいけにえの血を流して献げ物をしてきました。けれども、イエスにおいては、イエス自身が血を流して「人間のいけにえ」になってくれたのだ。もうこれ以上の決定的ないけにえがあろうかと。
 もうじゅうぶん。もうこれ以上のいけにえ、これ以上の身代金は必要ない。神と人間の間には、完全に関係の修復が成立した。
 人間の方は和解金を払っていません。キリストが代わりに払ってくれました。人間の側からは自分たちから和解金を払うようなことをしていませんから、ここの3章25節に書いてあるように、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」というパウロの表現になってくるわけです。「神がキリストを立て」たんだと。神さまの方で全部お膳立てしてくれたんだから、人間の側から見れば、これはタダでの和解です。
 ですからこれは、そんな風にいろいろな象徴的な解釈が組み合わされた理解の仕方なんですね。全部象徴的な解釈によって作り上げられた理屈です。

▼神との「ちゃんとした関係」を取り戻そう

 そういうわけで、「贖い」というのは、この古代のユダヤ人の神殿における、血なまぐさい、血と脂でゲトゲトになってのを焼き尽くす世界。これをイメージしないでは、本当に理解するのは難しいんじゃないかなと思います。
 きれいなツルッとした十字架を見上げて、言葉だけ、観念だけで、「イエスさまは私たちの罪のために死なれました。これによって私たちはゆるされました」とありがたく唱えていても、あんまりちょっと現実的ではないのかも知れないなと思うわけですね。
 木に打ちつけられて、傷と涙と糞尿にまみれて殺害された、そのおぞましい姿に、祭壇で動物の血をふりまく様子が重ね合わされて見えてくる、そういう世界なんですね、十字架における受難というのは。
 このイエスの死に様に度肝を抜かれ、「ああ、神と私が和解するために、神のところから去っていたのは私のほうなのに、神をなだめるいけにえに、イエス自身がなってしまった。この人は私の代わりとして殺されたのだ。これが神の計らいだったのか。これに応えて、私も神さまとの「ちゃんとした関係」すなわち「義」に戻らなければと。
 それが、イエスの受難が私たちの罪の「贖い」となったということです。私たちは度肝を抜かれるような残酷なイエスの血のいけにえによって、かなり強引に神との「ちゃんとした関係」に戻されようとしているわけです。
 人間は、神との「義」なる関係。「ちゃんとした関係」に戻れば、真人間に戻って、本来の愛に根ざす、良き人間になれるはずです。
 けれども、神との関係を忘れて、人間が己の力に頼ったとき、愛のないパワーバランスのみの駆け引き、あるいは誰がどんな被害を受けようと自分たちの権力争いと金儲けに没頭し、挙げ句の果てに実力行使によって多くの人びとの命を奪い、多くの人の人生を破壊するという愚行。罪の極致。
 この人間の罪のために、神との和解のためにイエスは血を流したのに、まだこれからも血を流すのか。本当に情けない思いであり、悲しいですけれども、1日も早く、今地上のあちらこちらで起きている戦いが終わり、平和が回復するようにと祈らずにはおれませんし、希望を捨てないで生きてゆきたいと思います。
 私たちはこのことを他人事ではなく、このレントは人間の罪を深く悔い改めるレントにしなければならないのではないでしょうか。そのように思っています。
 最後に黙祷をしたいと思います。





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