Brother Thomas' Underground Chapel

あきらめない園丁

   by Br. Thomas  10/31/2004

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聖書:ルカによる福音書13章6〜9節(新共同訳)

  そしてイエスは次のたとえを話された。
  「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
  園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

家事手伝い

  みなさんは自分の家で「これはいつも私のしている仕事です」といえるもの、例えば家事の一部や家の仕事の手伝いをしていますか? やってない、と言われると今日の話が終わってしまうので、何かあるとして話を進めましょう。
  では質問です。その仕事は誰かに言われてしていることでしょうか? それとも自分からしていることでしょうか? その仕事をしているとき、あるいはその仕事を終えたとき、どう思っていますか? 面倒くさかったり、うっとおしかったりするだけですか? それとも、忙しいけど充実していると感じたり、誰かの役に立てて嬉しいと思ったりしますか?
  家事や家の仕事の手伝いに限りません。いつもしていることや、何気なくやっていることが、誰かの役に立てたら嬉しいですね。小さなことでも、あるいは逆にすごく面倒でうっとおしいことでも、誰かの役に立っていることを実感できたときは、充実感でいっぱいになるような気がしませんか。とりあえず、私はそんな気がします。

認められた仕事

  さて、10月に入ると宗教改革の話を聞くことが増えます。宗教改革に関係した人にカルヴィンという人がいます。
  カルヴィンは当時の人々に対して、こんなことを言います。「仕事というのはすべて神から与えられた仕事なのだよ。その仕事をまじめに努めたら、その仕事から得られる利益は神の恵みなのだよ。」この考え方は当時の人々にとって大きな発想の転換でした。詳しいことは省略しますが、人々にとっては、自分たちの仕事がはじめて神に認められたのです。カルヴィンはさらにこう言います。「あなたたちの仕事は神の栄光のために役立っているのだよ。」こう言われた人々はますます自分の仕事に励みました。
  社会の授業ではたいていこの後にこう続きます。この考えが近代資本主義につながります、と。

あきらめない園丁

  さっき読んだ聖書の物語を見てみましょう。元々この話は、今日の話の逆を示しています。イチジクの木が、実を付けるという大事な仕事をしなかったら、切られて捨てられてしまうよ。というのです。
  しかし私はここで、園丁つまり庭の世話をする人の言葉が持っている意味も大きいように思います。園丁は主人に対してこう言っていますね。「もう1年待ってください、もっと世話をしてみます。」
  私たちは、自分のしたことに対する結果をすぐに求めようとしてしまいます。誰かの役に立てたなと実感できたら嬉しいですが、すぐにはその実感を持てないことも多いです。そんなときには、その仕事が、何やら疲れるだけの仕事だったように思ってしまいます。でも、それは隠れたところで人の役に立ってるかもしれません。どこかに感謝している人がいるかもしれません。誰かから認められているかもしれません。

結果が見えなくても...

  私たちが毎日していることは、たいていが目の前に結果が出ません。でも、その仕事を途中で投げ出さず、「もう少し続けてみよう」と思えるようになりたいですね。
  誰かから「役に立ったよ、ありがとう」と直接には言ってもらえなくても、手抜きをせずに、その役割を忠実に努められる人になりたいですね。
  みなさんはそんな人になれるでしょうか。きっとなれる、と私は思っています。

祈り

  御在天の父なる神様。
  私たちが自分のつとめに忠実であることができるように導いてください。途中であきらめることがないように力づけてください。手を抜いてしまうような誘惑から守ってください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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