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 Q. クリスチャンって、再婚しちゃいけないんですか?

質問者A 「数年前に離婚しました。いまは再婚したいという願いを持っています。でも、聖書を読むと、再婚は罪なのではないかと心配でなりません。私が願っているのは、クリスチャンの人との結婚、できれば牧師やゴスペルシンガーなど、伝道者となる人と再婚できればと思っています。でも、そういう人は私のような者には関心がないのかもしれませんね……」

質問者B 「離婚については、離婚に関するQ&Aのページを見て、一方的に罪であるとは言えないことはわかりました。しかし、再婚も許されているのでしょうか。聖書のなかには、再婚も禁じている言葉があったと思うのですが……」

牧師 「ああー、そうですね。そういえばそうでした。離縁についての福音書の記事は、その後の再婚についても書いていましたね。じゃあこちらのほうも考えてみましょう。でも、基本的に聖書の読み方は同じですよ。書かれた時代や場所の社会状況から考えて読むんです。そして、それをそのまま今のわたしたちの社会に当てはめるのが本当にいいのかどうか、よく考えないといけません」

(2001〜2003年にかけて2,3回受けたご質問より)

 A. ぜんぜん問題ないですよ。

  離婚については、このQ&Aでもコーナーを設けて、すでに述べました
  その結論として、「人生のやりなおし」としての離婚を認めるというスタンスをとりました。
  「人生のやりなおし」を認めるというスタンスですから、当然、再婚も承認するという立場をとりたいと思います。
  しかし、聖書を使って、「再婚は罪である」と言うクリスチャンや牧師もおり、その言葉に傷ついたり悩んだりしている人もおられるようですから、少していねいに聖書から読み返してみましょう。

【目次】
1.聖書の記事には統一見解がない
2.実は誰もが時代・社会の要請によって考えを変化させている
3.イエスが言わなかったこともある
4.パウロにもパウロなりの思い込みがある
5.あなたなら、どうしますか



1.聖書の記事には統一見解がない

  離縁と再婚について書いてある聖書の記事は、福音書では合計4箇所あります。それぞれ似通った文章ですが、ちょっとずつ違います。というのももともとイエスが発した最初の言葉が、いろいろなルートで伝えられているうちに、伝えた人びとや聞いた人びとの考えが混じって、変化してしまうからです。変化してしまった何種類もの言葉がすべて聖書の中に伝えられている以上、「聖書に基づいて、こうだ」という風に、ひとつの結論を導き出すことは難しいということになります。
  以下に、それぞれの言葉を、書かれた時代の古い順に列挙してみましょう。

●マルコによる福音書
  「妻を離縁して他の女を妻にする者は、
妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことにな」(10章11−12節)

●ルカによる福音書
  「妻を離縁して他の女を妻にする者は
だれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(16章18節)

●マタイによる福音書
  @「しかし、わたしは言っておく。
不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでもその女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(5章32節)
  A「言っておくが、
不法な結婚でもないのに妻を離縁し、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」(19章9節)

  ルカとマタイとは、ほぼ同じに書かれたものですが、マルコのほうが一番古いことは確実だとされています。
  そして、マタイとルカには、マルコを参考にした部分と、マルコ以外の別の本(「Q資料」と呼ばれています)を参考にした部分があることも定説になっています。
  また、マルコにもQ資料にも共通の言い伝えが収録されていて、似ているけれども微妙に違う、という部分があったりすることも論じられています。
  それらのことを頭に入れて、これらの各文章を読むと、どうも、この離縁と再婚に関する文章は、マルコ系統と、Q資料系統の2つのルートで伝えられているのではないかと考えられます。つまり、単純に「マルコ → ルカとマタイ」というルートではなくて、ルカとマタイはそれぞれ、マルコとQ資料の両方を参照しながら、自分なりに文章をアレンジしたのだろうと考えられるのです。
  これらの各文章を、さらにくわしく分析してみましょう。


●マルコは男女平等で、離再婚は全面禁止

  まず、いちばん古いマルコですが、彼は、妻を離縁して他の女と再婚する男性は
「妻に対して」姦通の罪を犯す、と書いています。これは他の福音書にはない、マルコだけの特徴です。ふつう罪というのは、神さまに対して犯すものですが、マルコは「妻に対して」罪を犯すことになるじゃないか、と言うことで、離再婚がいかに最初の妻を傷つけるのか、という人間の心に注目している、と考えることができます。
  また、マルコは、
夫を離縁して他の男を夫にする女性も、姦通の罪を犯すのだ、と書いています。これも、他の福音書にはない特徴で、だいたい、男性中心的な古代のユダヤ人のことですから、通常はこういう戒めも男に対してのみ語られることが多いのです(つまり女性には人間として罪を犯す責任能力さえ認めていないのです)が、マルコは、ある意味男女平等に、「女性にも罪がある」と書いているわけです。
  ユダヤ人の間では、女性のほうから離縁を申し立てる権利は認められていないので、この戒めはユダヤ人以外のローマ帝国の市民のことを想定して書いたとも言われていますが、とにかく、3つの福音書のなかで、最も男女平等なのは、この記事に関する限りマルコです。
  しかし、後半の
「夫を離縁して……」の部分がマルコにしかないことと、そもそもイエスがこの言葉を語ったであろうユダヤ人の間では、妻のほうから離縁を申し立てることがなかったことを考えると、この部分は実はイエスの言葉の伝承にはなく、非ユダヤ人たちの読者に向けたマルコの創作である可能性が高いと言えそうです。


●ルカは男性中心的で、離再婚は全面禁止

  次にルカを見てみると、ここでは、妻を離縁して他の女を妻にする者は
「だれでも」(と言っても男性しか想定してないわけですが)姦通の罪を犯す、と書いています。これはマルコの書いた文章ととても似ているので、マルコから引用するときにルカが「妻に対して」「だれでも」に書き換えたと考えることもできるのですが、マタイにもやはり「だれでも」と書いてありますので、どうやら、マルコと同じ源流を持つ語録がQ資料に書いてあって、そこには「だれでも」と書いてあって、それをルカもマタイも参照したのではないかとも考えられるのです。
  少なくとも後半部分の、「離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」という文章は、マルコには無く、ルカとマタイの間では一致しているので、この部分はQ資料から取られたものだろう、と思われるのです。
  もちろんルカもマタイも、マルコを参照したはずですが、マルコの男女平等的なところを採用しなかった、という点では、ユダヤ的な男性中心的な考えに逆戻りしていると言うことができます。ルカはここでは、男性に対してのみ、戒めを述べているのです。前半の
「妻を離縁して……」の部分では、離縁して再婚する男性のケース、後半の「離縁された女を妻に……」の部分では、初婚であったとしても相手の女性が再婚である場合のケースについて述べています。どちらも、男に対する戒めでしかありません。


●マタイは男性中心的で、離再婚は部分的に容認

  次にマタイを見てみますと、ここには大きな変化が見られます。
  
「妻を離縁する者はだれでも」という文脈に、「不法な結婚でもないのに」という言葉が入り込みます。これはマタイがこの問題について述べている2箇所に共通して言えることです。
  
「不法な結婚でもないのに」妻を離縁するのは罪だ、と言っているということは、「不法な結婚であれば」妻を離縁するのはかまわない、と言っているのと同じです。つまり、離縁を部分的に容認しているのです。その意味では、他の福音書からは大きく方向転換したと言えるでしょう。
  では、「不法な結婚」とは何か、が問題になるのですが、それについては、マタイ福音書を読む限りでははっきりとはしません。ただ、「不法な結婚」と新共同訳聖書で訳されている言葉は、原語は「ポルネイア(淫らなこと)」、つまりポルノの語源になる言葉で、以前の口語訳聖書では「不品行」と訳されていた言葉なので、そこから想像されるのみです。
  しかし、いずれにせよ、「(おそらく妻が何らかの)淫らな行いをした場合は、(夫は)離縁してもよい」ということになり、これでは全くユダヤ教の離縁の考え方と同じ、マルコとは正反対の逆戻り、と言えるわけです。
  しかも、マタイは、「離縁する者はだれでも」の後の文脈を、その女に姦通の罪を犯させるという具合に書き換えてしまいます。これによって、離縁した場合に罪を犯すことになるのは男ではなく、離縁された女の側であるということになり、ここでもマタイの男性優位主義が見事に現れています。もっとも、これについては、マタイ自身も19章のもう一箇所の記事で、男性も姦通の罪を犯すように書いていて、矛盾なのですが、まぁ一人の著者の中で矛盾があっても人間だから仕方がないとも言えるし、また、矛盾ではなく、両方ともマタイの本音だったとしても、マタイが新しく「その女に姦通の罪を犯させる」という言葉を付け加えたことは確かなのですから、これでマタイの男女間は推して知るべしというべきでしょう。

  ……というわけで、3つの福音書の並行記事を比べるだけでも、離縁と再婚については、聖書の中に統一見解がないことがわかります。
  @マルコは、離縁と再婚は、最初に結婚した相手に対する罪だ、と離再婚を男女平等に全面的に否定します。
  Aルカは、男性のみに対しての戒めとして、離再婚を全面的に否定します。
  Bマタイは、妻が淫らな行いを行った場合という条件付きで、離再婚を容認しています。それ以外の場合は離再婚は認めていません。

  なんだ、結局、基本的には離再婚は禁止じゃないのか。あまり違いはないんじゃないか。そんな風に思いますか?
  この3つの福音書の姿勢の違いは根本的な違いだと言えるのではないでしょうか。
  たとえば、ルカはマルコと違って、男性のみの戒めしか書いていませんが、それでは非ユダヤ人たちから「女性の方から離縁を申し立てた場合はどうするのだ」という質問が投げつけられたときに、答えることができません。その点ではまだマルコのほうが、非ユダヤ的な答えになっていると言えるのです。
  マタイの答えは、もっと本当に根本的な転換です。「妻に淫らな行いがあれば、夫はその妻を離縁できる」、ということは、妻の側から見れば、
「夫と別れたいときには、夫以外の人と仲良くなってしまえばよい」ということになってしまいます。夫に、「この結婚は不法な結婚だ!」と言わせてしまえばよいのです。これでは、「やったもん勝ち」と言わざるを得ません。
  あるいは、このマタイの文章では、「誰の」「不品行」か、「誰が」不法な結婚にしたのか、も書いてありませんから、夫の不品行の場合も考えられます。とすれば、夫が妻以外の相手と関係を持ち、自ら
「不法な結婚」にしてしまった場合も、離縁するしかない、という解釈になります。
  ひどい、悪意に満ちた解釈だとお思いになるでしょうか? しかし、そうではなく、そういうことをカバーしないマタイが悪いのではないでしょうか。
  というわけで、離再婚の問題に限って言えば、マルコとルカは全面禁止ですが、マタイの場合は、結婚のいずれかの当事者にしろ、次のお相手をちゃんと用意してしまった場合は離再婚するしかないだろう、という解釈になります。
  つまり、福音書を読む限り、
離再婚には統一見解が無い、ということになります。


2.実は誰もが時代・社会の要請によって考えを変化させている


  それでも、「『不法な結婚』または『不品行』、つまり、配偶者への裏切りでもない限り、原則的には離再婚は認められないのだ」というご意見もあるでしょう。
  たとえば、経済的な理由であるとか、性格の不一致であるとか、ドメスティック・バイオレンスであるとか、そういうことでは離再婚は認められないと。
  しかし、やはり、なぜ複数の福音書作家たちが、このように異なる見解を提示しているのか、ということは考えておかないといけないでしょう。「なぜ、福音書作家たちは異なる見解を書き残しているのか?」それは、彼らの思想の違いもあったでしょうが、それと同等に、あるいはそれ以上に、彼らの読者たちの求めているものがあったからではないか、ということも考えられるのです。

  上述のような分析の結果、おそらく最初のイエスの言葉と思われるのは、「妻を離縁して他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」という、この言葉だけでしょう。イエスはともかく純粋に、結婚の最初の約束の尊さを主張したのだろうと考えられます。隣人の妻を見ただけでも、「そんなことをする者は姦通の罪を犯しているのだ(マタイによる福音書5章28節)」、と言うような人のことですから、離再婚も姦淫と同じだ、と言っても不思議ではありません。イエスという人は、無邪気なほど純粋に、結婚の最初の約束の純粋さを求めた人だなぁと思います。また、男性に一方的に離縁されることによって、路頭に迷う危険性もあった当時の女性の地位から考えても、イエスはそのような男性の身勝手さを批判したということは考えられるでしょう。

  このイエスの、純粋に離再婚を責める言葉に、マルコは男女平等の要素を盛り込みました。Q資料は
「離縁された女を妻にする者は姦通の罪を犯す」という句を加えました。ルカはほぼQのとおりに書き写し、マタイは条件付きで離再婚を認める言葉に改ざんしてしまいました。
  このような変化・変更は全て、彼ら福音書作家たち自身の思想が反映したのと同時に、彼らが読者として想定していた人びとのことを意識した結果ではないか、と考えられるのです。
  マルコは、非ユダヤ人の男女平等的な考え方をしている読者のことを意識したから、このような男女平等的な文章にしたのではないか。
  ルカは、ユダヤ人的な男性中心的な発送から抜け出すことが出来なかったから、このような男性中心的な文章しか書けなかったのではないか。
  マタイは、教会の中のユダヤ人たちを意識して、よりユダヤ律法的な要素の強い戒めへと逆戻りしたのではないか。

  そう考えると、聖書の一言一句も、著者の置かれていた立場やその時代・社会の要請に応じて、次第に変化してゆくのだということが言えるでしょう。
  ということは、聖書の一箇所だけを取って、「ここにこう書いてあるから」と言って、なにかの行動を決める根拠にはなりにくいのだ、ということになります。同じことについて聖書の中に互いに異なる見解があるわけですから。
  そして、福音書作家たちが、それぞれ、自分の思想や、自分の読者の要請によって記述を変えていったならば、たとえば、我々だって、我々なりの思考法と、我々自身の社会状況も踏まえた要請によって、物事を判断していっていいはずなのです。福音書など、たかだかイエスが死んでから100年以内の作品です。そんな短い時代の間でも、イエスの言葉をもとに、これだけの戒めのバリエーションが生まれてくるわけですから、イエス死後2000年近くたった現代の社会では、現代の社会の要請に応えるような倫理をキリスト教が生み出しても、それは差しつかえの無いことなのです。逆にイエス死後たかだか100年以内の言葉だけを唯一絶対の判断基準にする、なんてことは実にバカげた物の考え方です。
  私たちはいまの時代・社会の状況に合った、キリスト教的な振る舞いを考えることが出来ます。


3.イエスが言わなかったこともある

  ここでさらに、福音書以外の聖書の記事も読んでみましょう。
  パウロが書いた
コリントの信徒への手紙(一)には、こういうことが書かれてあります。
  
@「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく主です。――既に別れてしまっているのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない」(7章10−11節)
  
A「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います」(7章39−40節)

  こう書いてあると、夫が死んだときのみ再婚してもいいのではないか、ということになります。
  離縁して再婚することについては、マルコ福音書やルカ福音書と同じように、やはり禁じているように見えます。じっさい
「妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく主です」と言っているので、パウロは、妻からも離婚を申し立てることを前提としているマルコ型のイエス語録を読んでいる可能性があります。
  @の言葉の直後に、パウロは
「その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが……」(7章12節)と言葉を続けているので、パウロもイエスの言葉だけでは日々の具体的な生活に関する判断まではできず、独自の判断を下さなくてはならなくなっていることがわかります。こういうことは他の箇所でも、「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます」(7章25節)ということを言っていることからもうかがえることです。
  そして、それらの独自な判断のなかで、Aの言葉にあるように、夫と死別した妻のケースが登場します。

  なぜ、こういう独自の判断をいろいろと下していかないといけないかというと、それは、そういう質問や要請があったからだと考えるのがいちばん自然でしょう。
  初期の教会に与えられたイエスの言葉は、「離縁して再婚するものは姦淫を犯す」、それだけです。
  しかし、たとえばパウロのような伝道者のところには、「私は改宗したが、結婚相手は改宗しない。このままでは離縁するしかないと思うがどうしたらいいのか」などといった相談が持ちかけられていたのでしょう。←これに対しては
「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい」(7章15節)などと言っていますから、もうすでにパウロも、イエスの言葉に反して、(マタイと同じように条件つきで)離縁を認めているわけです。パウロの手紙は福音書などより、ずっと先に書かれた初期のものですから、そんな初期の時代から、イエスの言葉に反して、現実生活におけるバリエーションが生まれていることの証拠です。しかもそんなことが書かれた文書が、「聖書」として組み込まれているのです。

  現実に対処するには、イエスの数少ない言葉だけを頼りに全てを判断するわけにはいかない。イエスが言わなかったこと、イエスが想定していなかったこと、そんなものは実にたくさんあるのです。
  そういうケースに対しては、パウロも、マタイも、それぞれの立場や思想によって判断を下してゆきました。しかし、そんな彼らも古代の人ですから、現代の私たちが遭遇している問題については想定外です。つまり、我々の日常生活の現実については、聖書に書いてないこともたくさんあるのです。
  ですから、その都度、人間はケース・バイ・ケースで判断してゆかなくてはならないのです。


4.パウロにもパウロなりの思い込みがある

  パウロは死別の場合のみ、再婚を許可しました。しかも相手はクリスチャンに限る、とのことです。
  しかし、それに付け加えて、「しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です」(7章40節)と続けます。
  というのも、パウロはもともと結婚そのものに、非常に冷ややかな態度を取っているのです。
  「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」(コリントの信徒への手紙(一)7章1−2節)
  「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」(同7節)
  「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」(同8−9節)
  ……他にも多数の箇所で、パウロは結婚そのものに否定的な態度を取り続けています。

  彼がなぜ結婚に否定的なのかというと、それは、彼が「もうすぐこの世の終わりが来る」と本気で信じていたからでしょう。
 
 「今、危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているのなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない」(同26−27節)
  それでも、結婚したいという人びとが次々にパウロに問い合わせてくる。あるいは、終末が迫っているからこそ、結婚式をあげたいという者もいたことでしょう。そこで、パウロとしても、
「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思い通りにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。……〔中略〕……要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです」(同36−38節)という風に、しぶしぶ認めざるを得なかったというわけです。

  そういう状況を想像しながら読むと、先の箇所に続く
39節以下で、「夫が死ねば、望む人と再婚しても、かまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です」という言葉も、やはり、夫が死別したけれども、他に結婚したい相手ができた人に相談されるという場面で、現実的に臨機応変に対処せざるをえなかった結果なのであろうと、考えられます。

  パウロにとって大切なのは、迫り来る終わりの時を目前にして、いかに、世事のことにとらわれず、聖なる生活を送るか、という一点にしぼられています。
  しかし、パウロが相手にしている手紙のあて先の人びとは、そこまで突き詰めた思い込みはなく、現実生活を送る上での判断を求めてパウロに問い合わせをしているように感じられます。
  もし、パウロが自分の死後、2000年近くも、この世の終わりが来ていないというこの事実を、あらかじめ知っていたら、どういうことになったでしょうか。
  「もしも」の話をしてもしかたがないかも知れませんが、結婚や離婚・再婚について、もっと広い考え方をしていた可能性もあります。「死別した場合のみで、相手もクリスチャンでないとだめだ」という思考の硬さからは解放されているかもしれません。
  そもそもパウロ自身、片方がクリスチャンで、もう片方がノンクリスチャン、というカップルのことを容認しています。
  
「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(7章12−13節)と述べていますから。
  ですから、「終末が迫っている」という硬直した考えから解放されたとき、パウロも、
「相手は主に結ばれている者に限ります」という思考の硬さを解く可能性があるのではないでしょうか。そして、死別ではなかったとしても、離婚経験者であったとしても、新しいパートナーと結ばれたいと希望する人びとに要請を受けたときにも、やはり臨機応変に答を出していたのではないでしょうか。
  もっとも、これらは推測にすぎませんが……。


5.あなたなら、どうしますか

  とにかく、聖書の中でも統一見解が無く、聖書記者たちも現実の問題に対処して臨機応変に判断した形跡がある以上、わたしたちも、(何度も言っているように)ある聖書の箇所をひとつつかまえて引用し、「これで再婚は禁止されている」ということはできません。
  イエスは離再婚は罪だと断罪しました。マタイは「不品行」でなければ離縁は罪だと書くことで、逆に「不品行」が原因で起こる離再婚を容認しました。パウロは死別した場合は再婚を認めると言いました。
  みなそれぞれ異なる独自の判断に基づいた臨機応変の見解です。
  つまり、はっきり言えることは、
   (1)聖書が統一見解として、再婚を禁止しているわけではない。
   (2)聖書の見解も、著者とその著者の置かれた状況によって変化している。
  ということです。
  ということは、
聖書を根拠に、「再婚は罪である」とはっきりと断言することは出来ない、ということになります。
  そして、聖書の記者たちがそうしたように、私たち自身も、今じぶんが置かれている状況のなかで、臨機応変に判断するということがゆるされているのだ、と考えることができるのです。

  離婚についてのQ&Aでも述べましたが、離婚や再婚は人生の再出発としてのチャンスとみなすことができます。
  特に再婚は、一度死んだような自分の人生を復活させることを願っての行動とも言えるでしょう。
  そのような再婚を、教会も、周囲のクリスチャンも、祝福するべきではないのかと、私は思います。

〔2005年10月24日〕

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