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 Q. クリスチャンは、初詣しちゃいけないんですか?

父 「あけましておめでとう。さ、今年も○○神社に初詣に行くぞ」
息子 「ぼくは行かないよ」
父 「ん? なんだ。せっかくお正月で家族そろったというのに、なんでまたそうやって和を乱すことを言うんだ? おまえは教会に行き始めてから、おかしくなったんだ。早くそんな宗教から足を洗うんだな」
息子 「初詣だって宗教だよ」
父 「あれは宗教じゃない、単なる習慣、風習だ。ただの年中行事で慣わしみたいなもんだ。宗教とは違う」
息子 「神社は神道(しんとう)っていう立派な宗教だよ。ぼくは異教の礼拝には参加したくない。だから初詣には行かない」
父 「まったくお前ってやつは堅苦しく物事を考えるやつだな。それでも日本人か?」

(ときどき耳にする質問。上記の会話はフィクションです)

 A. お祭りは楽しんでください。でも礼拝はおすすめしません。

クリスチャンではないあなたへ

  クリスチャンではないあなたは、クリスチャンがキリスト教の一人の神以外の宗教、および宗教的文化に対して距離をとりたがることに、不快感をおぼえるかも知れません。
  クリスチャンというのは、日本では圧倒的少数派です。大きな職場の中でも一人、二人いればいいほうですし、家族の中でも少数者であったりします。職場のみんなや家族で初詣にでも行こうかということになると、このクリスチャンである人が、いっしょに神社の境内に入ることをいやがったり、初詣そのものにも同行したがらない、ということがあるかも知れません。
  しかし、そんなときには、どうか寛容な心で接していただきたいと思います。特に日本では信教の自由は憲法で保障されています(第20条)。宗教は個人の自由の問題だと受け止めてくださいますと助かります。
  「そうは言っても、うちは○○神社の氏子なのだ」とか「○○寺の檀家なのだ」とかいうような都合がある場合もあるでしょう。そういう役割を引き受けた上でも、個人的にはどんな信仰を持とうが自由なのだ、ということを認めていただきたいと思います。

  面白いことに、日本人の多くは、「自分は無宗教だ」とおっしゃるわりには、たいへん信心深い人が多いようです。お正月には初詣に行き、お盆には墓参りを欠かさない、という人が多く、それを家族の義務と考えている人もいます。
  しかし、神社におまいりするのも、仏さまに線香をあげるのも宗教的行為です。
  日本人は神道における初詣や、仏教における墓参りや法事などを、宗教だと自覚していない場合が多いのですが、それは、私たちの日常生活の中に、まるで空気のようにしみこんでいるために、それが別段、宗教であると意識することもなく過ごしているというだけのことなのです。
  多くの日本人はそれを「宗教である」とは意識していませんが、それは単に意識していないだけであって、客観的には間違いなくそれは宗教なのです。

  さて、多くの者がひとつの宗教的行為に親しんでいるのに、一人だけ異なる宗教文化を持ち、それを主張することについて不愉快に感じる人もいるでしょう。
  その場合、少数派である宗教の信者のほうに問題があると思いがちです。しかし、多数派のみなさんにも問題があると考えることはできないでしょうか。
  たとえば、一神教の信者は寛容さがない。それに対して、日本人は多神教的なので、キリスト教のような一神教と違って、寛容で平和的だということがいわれる場合があります。
  確かに、一人の神を信じ、他の宗教を信じることを拒否する唯一神教は、他の神を認めないという点で、寛容ではないように思われる面もあると思います。しかし、では日本人が宗教的に寛容なのかというと、必ずしもそうではないと思われます。

  たとえば、日本では長い間、キリシタンに対する迫害・弾圧がなされてきました。江戸時代までには、日本のキリシタンはほとんど弾圧されつくして、わずかに残る人びとが潜伏してカクレキリシタンになりました。
  また、太平洋戦争当時は、神社に対する礼拝や天皇に対する賛美は国民の義務とされ、一神教徒であるキリスト教徒が参拝を拒否した場合には、徹底的な弾圧がなされました。教会は生き残りをかけて「教育勅語こそ日本人の聖書」と宣伝したり、キリスト教学校が軍に戦闘機を奉献したりして、弾圧されまいと必死に努力しました。生き残りのためであったとはいえ、これらは日本のキリスト教界の戦争協力の罪責として語り伝えられているものです。
  国内だけではなく、アジアに侵攻した日本軍は、行く先々で鳥居を建て、現地の人びとにも天皇を礼賛し、神社に礼拝することを強制しました。これに逆らう者は容赦なく処刑しました。韓国ではキリスト教会が抗日運動の拠点になったと聞きます。韓国のクリスチャンにとっては、これは日本的なるものを押し付けられることに対する抵抗であり、宗教戦争の一面もあったわけです。
  天皇を神の子孫とし、日本を「国体」という神の体とみなし、それらを礼賛する宗教を「国家神道」といいますが、大日本帝国政府はこれを「宗教ではない」という口上で取り扱ってきました。「神道非宗教説」といいますが、「神道は宗教ではない。宗教よりも優先する国民の義務である」という理屈で、国民に強制されてきたカルトの一種なのです。
  この理屈の巧妙なところは、「特定の宗教への信心は個人の内面の自由である」と言葉上は認めているところです。「個人的に内面で何を信じていてもかまいませんよ。でも国民の義務としては、しっかり神道をやってくださいよ」ということです。国家にとっては、内面で何を考えていようがどうでもよく、富国強兵に役立つ人材として国家に役立ってくれたらそれでいい、ということなのです。
  そして現在(2007年時点)、全国のあちこちの公立学校で、クリスチャンであるがゆえに天皇を礼賛する「君が代」の斉唱、「日の丸」への敬礼を拒否した教員たちが、処分を受け続けています。これは、憲法で保障されているはずの、信教の自由に対する重大な侵害であると言えるでしょう。
  そういうことを昔から、そして今も積み重ねてきているのですから、「日本人が宗教的に寛容だ」というのは美しい誤解といわざるをえません。

  多くの日本人は、多神教的な自分たちの風土と異なる質の宗教観を持ち込まれることを非常に嫌います。多神教的な自分たちの宗教的雰囲気を乱す者については、すこしも寛容ではありません。いや、むしろ非常に排他的であり、不寛容だと言えるでしょう。
  自分と同質な宗教観の人びとが自分の周囲にいて当たり前。異質な宗教観を持つ人がいなくて当たり前。それが日本人のうちの大半の人の感覚です。ですから、もし異質な宗教観の人がいることがわかっても、どう対応していいのかわからないので、黙殺するか、そうでなければ否定するしか対応の仕方がわからないようです。
  おそらく、寛容か寛容でないかということは、一神教であるか多神教であるかということとは、あまり関係がないのでしょう。それは、ある集団のなかで少数派の存在を多数派が認めるかどうか、という社会的な問題以外のなにものでもないのです。

  日本人には、「同じ人間だ」、あるいは「同じ日本人だ」ということに喜びを抱く人が多いようです。人間の基本的人権のことについて話したり考えたりするときでも、「同じ人間なんだから」という論理を持ち出す人が多いように感じます。
  しかし、本当は自分と「同じ人間」なんて一人もいないのです。人は実はそれぞれに違っています。「同じ人間」というのは幻想です。なんらかの共通点を見つけることができるかも知れません。しかし、その共通点だけで群れ集まってしまうと、その共通点を持たない人は排除されることになります。「同じ人間だから」という発想だけでは、異質な特徴を持つ人が目の前に現れたときに、じゅうぶんに対応できません。むしろかえって異質なものを痛めつけ、排除するイジメの原因になったりもするのです。
  よく言われることですが、「みんな違って、みんないい」、それぞれに違う個性を持っていることに喜びを感じるようでないと、ひとりひとりの人権や尊厳は守れないだろうと思います。

  私自身の失敗談ですが、たとえば職場で話していた外国人の教員がユダヤ人であることに全く気づかないで、「メリー・クリスマス!」と声をかけてしまったことがあります。アメリカから来た人なら誰でもクリスマスはお祝いするだろうと思い込んでいたのです。しかし、彼はユダヤ人でした。私が「メリー・クリスマス!」と言ったとき、彼はちょっと戸惑ったような、妙な態度をとったのです。その意味が最初はわかりませんでした。しかし、帰り道でハタと気づきました。あわてて職場に書け戻って、そのことを謝ったときに、その人は、ちょうどクリスマスの時期ごろには「ハヌカー祭」というお祭りがあって、「ハッピー・ハヌカー!」と言うんだよと笑顔で教えてくれました。まだ彼が職場に残っていたからこそ、私は謝罪することができたわけですが、そうでなければ私は、長い間ユダヤ人を迫害し、虐待しつづけてきたキリスト教の罪責を上塗りするところでした。

  また、別のとき、私の職場の高校のある先生が、ある生徒の大学合格証書を見て、喜びながらではありますが、「感謝して、これを神棚に祭っとけ! わかったか!」とその生徒に言いました。しかし、その先生は知らなかったのですが、当の生徒はお母さんがクリスチャンで、本人も洗礼を受けるところまではいっていないにしろ、教会生活はしており、キリスト教と自分の関係についていつも意識していた子なのです。その生徒にとっては、「神棚」は日常生活にはありません。しかし、そういうことに配慮する感覚が、この教師にはありません。神棚というものが日常生活のなかにあって当たり前という感覚で、そうでない宗教的風土が想像できないのです。(キリスト教学校に勤める教師といっても、情けないことに大半がそうなのです)。
  このように、自分にとって当たり前だと思っていることが、相手の宗教観を無視し、否定することにつながる場合があります。圧倒的多数の人が
「当たり前」だと思っていることなので、その人は少数者のことに気が回らないのです。その結果、少数者の側は、自分が大切にしているものを否定されたり、踏みにじられたりするのです。つまり、多数派の人びとが「自分以外の人たちのことをよく知らない」ということが、結果的に不寛容につながるということなのです。

  日本人は、よく「日本人はこうだ」ということを話題にしたがります。しかし、そうやってこの島国に住む人を、ひとつの色に染めようとする全体主義的な発想は、そろそろ卒業したほうがいいのではないでしょうか。本当はひとりひとり違うものを、違っているままに受け入れあうのが、成熟した社会というものなのではないでしょうか。
  宗教についても、ひとりひとりが違った宗教観や信心を持ち、違った宗教が隣り合わせになりながら、共存している、という状態を理想とするほうがよいのではないでしょうか。
  特にこれから、多くの民族や宗教的バックグラウンドを持つ人びとと触れ合う機会が多くなる国際化社会において、たとえば「友人にクリスチャンがいて、親戚にはユダヤ教徒がいる。その結婚相手はヒンドゥー教徒だ。でもその息子はムスリム(イスラーム信徒)に改宗したそうだ」などという会話が当たり前のようになることでしょう。そんなコスモポリタン的な感覚で、クリスチャンを見てもらえたら、うれしいなと思います。


クリスチャンであるあなたへ
 
  年の瀬、年明け、初詣の季節が近づいてくると、憂鬱な気分になるクリスチャンの方もいらっしゃることだろうと思います。
  職場のみんなで、あるいは家族で、初詣に行こうということになると、クリスチャンの自分はいっしょに参加することができない。そのことで、周囲の人たちに余計な気を遣わせたり、たった独りはぐれたような疎外感を感じたり……。そんな気苦労をすることが予想されるので、お正月は憂鬱な季節なのかも知れませんね。

  でも、もしあなたが、厳格に唯一神教の考え方を貫徹したいと思うならば、初詣は恐れる必要はありません。
  この世には唯一の主なる神しか存在しない。ということは、異教の神も存在しないということになります。みんなが初詣に来て、拝んでいる、しかし実はそこには誰も存在していないのです。悪魔がいるというわけでもありません。ですから、初詣に同行しても、自分にはなんの害もありません。
神社の境内に入ることにも、何の問題もありません。鳥居をくぐって入ろうが、境内の屋台でたい焼きを買おうがリンゴ飴を買おうが、それはあなたの信仰上の問題にはなりません。大いに楽しんでください。日本にはこういう風習があるのだ、と外国の風習を見学するような気分でいいのです。

  ただ、神社の本殿に向かって、拝んだりするようなまねは、やめておいたほうがよいでしょう。それは、あなたの宗教的なアイデンティティを破壊します。
  別に拝んでも、そこには神はおられないのですから、意味のない行動をしたまでだ、と言うこともできます。しかし、礼拝は礼拝です。そこに神はいないにもかかわらず、あたかもそこに神がいるかのようにふるまうのは、自分にうそをつくことになります。
  (このあたりについては、この三十番地キリスト教会の『下世話なQ&A』で、「クリスチャンって合掌したり焼香したりしないんですよね」で述べていることと矛盾するようですが、亡くなった人への供養に対する日本人の思い入れの強さを考えると、葬送に関する儀礼に関しては、礼を尽くすことをやはりおすすめします。遺影の前で、手を合わせ、クリスチャンとして、その人の魂の和らぎを主なる神に祈るということでいいと思います。しかし、大半の日本人が初詣においては、日常的な幸福の願い事をしているという「軽さ」においては、迎合する必要は特にないと思います。このあたりはクリスチャンどうしでも、かなり論議の幅があるでしょうが……)

  クリスチャンは、もっとキリスト教以外の宗教の存在を尊重すべきだとは思います。しかし、それは
自分の宗教的アイデンティティを尊重するからこそ、他の宗教を信じる人たちの宗教的行動も尊重しようということなのです。尊厳はどの宗教にもあります。あなたは、自分の宗教的な側面について、自信を持って主張してよいはずなのです。
  宗教的寛容とはそういうものです。自分の信教の自由も保障されている。同じように他の宗教の信徒の権利も保障されなければならないのです。
  日本国憲法には信教の自由が明記されています(第20条)。そこでは、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」(第1項後半)、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」(第2項)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(第3項)とあるので、「宗教『からの』自由」(つまり、いかなる特定の宗教からも離れていること)が強調されているように感じる人も多いでしょうが、これは大日本帝国の時代に、じっさいに国家神道という宗教と政治が結びついていたことの反省があって、公的機関と宗教の結びつきが禁じられているのであって、それらの条文に先立って、大前提として
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(第1項前半)、つまり「宗教『への』自由」、言い換えれば「信じる自由」ということが謳われていることを思い起こしましょう。

  あなたは本来、自分が何教の信徒であると主張してよいはずなのです。じっさいにはそのことが職場で人に迷惑をかけるようであったり、職場の雰囲気を乱す、それがつらい、というようであれば、それを表明しない権利もあなたにはあります。自分がしんどくなるようなら、無理をしなくてもかまいません。しかし、そうでないかぎりは、自分がクリスチャンであるということを表明してもよいのです。声高に吹聴する必要はありませんが、たとえば初詣には付き合うけれども、自分が拝むことはしない、というちょっとした意思表示をすることは大切なことなのです。
  ただでさえ、クリスチャンは日本において圧倒的にマイノリティです。あなたがちょっとした勇気を出して「わたしは実はクリスチャンです」とカミングアウトすることが、日本に住むほかのクリスチャンたちを勇気づけることになるのです。

  もちろん、あなたの家庭が神社の氏子であったり、お寺の檀家だったりすることもあるかも知れません。そのため、表立って自分はキリスト教を信じているとは表明しにくい、あるいは表明するとまずい、まさか信じてはいるものの洗礼まではとても……ということもあるかも知れません。
  そういう場合は無理をしなくてもよいのだろうと思います。非常に不謹慎な言い方をあえて恐れずにするならば、親が生きている間はおとなしくしておけばいいのです。あなたが男性であるならば、自分が一家の主または長老になれば、かなり自由度が増すでしょう。女性の場合はどうしても立場が弱くなりがちですから、必ず夫よりも長生きできるように健康に気をつけましょう。

  多くの日本人は、長年島国で暮らし、しかも鎖国の時代も長かったせいか、日本だけは特別な国だと思っていたり、自分たちの社会のなかに一定数いるはずの少数派の人びとと接することが非常に苦手であったりします。そのために、圧倒的少数者であるクリスチャンとしてあなたは、人にはわからないようなところで疎外感や孤独感を感じてきたかも知れません。それは日本のなかで異民族として暮らしてゆくことと似たような心細い感覚ではないでしょうか。
  しかし、少数者の尊厳や人権を尊重してゆくことが大切であるのと同じく、クリスチャンであることも尊重されなくてはならない、と私は思います。
  「信教の自由」とは本来、
「自分が何を信じても、それは権利として尊重されなくてはならない」、「特定の信仰を否定することは、りっぱな人権侵害である」ということなのです。
  そういうことを理解していない日本人が多いのが現状です。しかし、その権利を陰に日向に、強い方法でも弱い方法でもいいから、元気に主張し続けてゆくことが大切なのではないかなと思います。
  あなたの「信教の自由」を本当の意味で獲得するために、クリスチャンどうし励ましあいながら、あるいは他の宗教の信徒とも励ましあいながら、歩んでいきましょう。

〔最終更新日:2007年11月25日〕

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