(2013年7月23日、iChurch.meに寄せられたメールより)
私はクリスチャン(プロテスタント)です。「Q.クリスチャンになったら共産党を支持しないといけないんですか?」を読んでの感想です。
現在、労働組合の専従者として勤務しています。仕事柄というのも変ですが、僕は共産党を支持しています。
Qでは共産党を支持しろというようなことを言われたとのことですが、僕の場合はその反対です。
牧師からは今の仕事を辞めた方があなたの信仰のためだと言われたり、政治と決別しなさいとまで言われました。
また、年齢の近い教会信徒からも「今の仕事はダメなんじゃない」という言われ方をして、Qとは反対の辛さを味わっています。
最近では、その教会から足が遠のき、自分の中で納得できる教会を探しています。
そして、時折ネットなどで僕の感じていることに近い書き込みを見つけるとメールを送らせていただいています。
政治と決別することも、反対に迎合することも間違いだとは思います。
しかし、僕は平和や貧困撲滅などを祈るだけで、クリスチャンとして何も行動しないこと、あるいはできないことをとても悔しく感じていました。そこで、労働組合で働くことを決意したのです。
こうした決断を下すまで祈りに祈りました。祈りの中で教会の中からは理解されえないであろうことも示され、覚悟しました。
だからこそ、牧師や教会員にそのように言われることを辛く感じるのです。
上記の経緯を牧師に話しても、やはり理解は得られませんでした。言葉尻に「青臭いことを言うな」というニュアンスがあるのです。
特に日本において、教会とイデオロギーの関係は難しいものがあるのかもしれません。
▼共産党を支持しても、しなくてもいいんです
結論から言うと、まったく自由ですから、自由に自分の支持したい政党を支持してください。共産党でなくても、たとえば共産党とは全く相容れないであろう自民党であったとしても、それはあなたの自由です。
クリスチャンの中には、共産党を支持する人も、共産党を嫌う人もいます。
共産党を支持する人の多くは、共産党が掲げる軍備拡張反対、憲法9条を守る、原発反対、そして福祉の充実という平和主義的な主張に共感しているように私には思われます。キリスト教は、基本的に「命」、「愛」を大切にしようという宗教ですし、特に日本においては平和主義、反原発主義を唱えるクリスチャンは多くいます。そして、いま日本にある政党の中で、平和主義、反軍拡、反核、反原発、平和憲法護持などを一貫して明確に掲げているのは共産党しかないので、これに共感するクリスチャンがいるのは当たり前のことです。
もっとも、共産党とは全く協調しないで、平和主義、反核を主張するクリスチャンのほうが、共産党と協調するクリスチャンよりは多いであろうという感触も得ています。
▼共産党を嫌うクリスチャンの気持ち
クリスチャンが共産党への支持に反対する場合、大きくは以下の2つの理由が考えられます。
(1)「宗教はアヘンだ」
まず1つは、「共産党は宗教を否定するから」と思っている人がいるということです。
カール・マルクスが「宗教は民衆のアヘンである」と言ったのは有名です。しかし、これをマルクスが言ったとき、彼はキリスト教会がこの世の現実の貧困問題などに全く関与せず、もっぱら死後の天国での安らぎを説く事で、この世の現実の貧富の差という問題を解決することを邪魔していると見たために、教会を批判するために言ったようなのですね。「今の苦しみの現実から目を背けさせ、感覚を麻痺させるためのアヘンだ」と言ったわけです。
このマルクスの指摘は、実はクリスチャン側から見ても、妥当だと思わされる面があります。じっさい、イエスは貧しい人や病気の人、差別されている人をもっぱら招いて共に食事をし、飢えている者の腹を満たすという実践をする中で、「神の国というのは、こういう食事のような幸せな場所なんだよ」と示して回ったわけです。また、朝から働いた人も、夕方に来た人も、同じように最低限の生活が保証される、それが神の国というものだ(ぶどう園の労働者のたとえ:マタイによる福音書20章1−18節)とイエスが言ったと伝えられています。ですから、イエスは立派に貧富の格差や貧困の問題に取り組み、発言していたと言えるわけです。
にも関わらず、この世の貧困や不当な労働の問題から目をそらしているとしたら、それこそイエスの望んだ事と違うではないかという自己批判もできるわけで、そういう意味では、マルクスの発言からクリスチャン自身が自分を糾され、正されるということもありうるわけです。
しかし、共産党員の中には、これを非常に単純化して、「マルクスが宗教はアヘンだと言ったから、宗教はダメだ」と思っている人がいるのですね。
私は学校で働いていますが、学校でも共産党支持の教員に会議の場で「学校が特定の宗教や思想に肩入れするのはよくない」と批判されたことがあります。キリスト教学校でキリスト教に肩入れするなという発言が出るおかしさとか、共産党員が特定の思想を避けよという発言をするおかしさなど、面白い点がいっぱいありますが、それは横に置いたとして、とにかく、「宗教はダメ」という風に教条主義で思い込んでいる共産党員がいます。
これと同じように、クリスチャンのなかにも、「共産党は宗教はダメだと言っている。だから、共産党はダメだ」と単純すぎる理解をしている人がいるのですね。そこで、クリスチャン仲間に「共産党に近づいてはいけない」、「共産党とは関わりを持たないように」と言うわけです。
これはマルクスに対する単純すぎる理解のしかたです。マルクスはとても深くキリスト教を研究していましたし、彼の主たる目的は宗教を攻撃する事ではなく、人間の間にある格差を是正することでした。それをないがしろにする教会を批判していたわけで、教会が社会の問題にしっかり取り組んでいたなら、マルクスは「宗教はアヘンだ」などとは言わなかったのではないでしょうか。
(2)「政教分離」
クリスチャンが共産党への支持に反対する場合、そのもう1つの理由は、おそらく「政教分離の原則に反するから」ということではないかと思われます。
宗教が政治に関与するのはよくないから、特定の政党の支持や、政治に関する意見を述べるのもやめておいた方がいい、と考えるわけです。
しかし、これも政教分離というものに対する、日本人クリスチャン独特の考え方であって、それが必ずしも正しいとは言い切れません。
たとえば、政教分離を掲げているヨーロッパの国々やアメリカを見てみても、日本のクリスチャンが考えているような政教分離と、彼らが考えている政教分離はちょっと違うような気がします。
ヨーロッパには、今でも国教会を抱えている国々があります。たとえばドイツでプロテスタントの国教会(ランデス・キルへ:Landes Kirche)があって、そこの教会の牧師は公務員です。でも、国民がランデス・キルへへの入会を強制されているかというと、そうではなく、カトリックの信者もいますし、それ以外の宗教の信者もいます。イギリスでも、国教会(アングリカン・チャーチ:Anglican Church:日本ではその拡大組織として聖公会があります)があり、この英国国教会の最高位にあるのは英国王(女王)ですし、この英国国教会の長である女王が総理大臣を任命するはずです。そういう意味では、ドイツもイギリスも政治と宗教が「分離」していないのです。しかし、やはりイギリスでもアングリカン・チャーチ以外の信者はたくさんいますし、無神論者もたくさんいます。個人の信教の自由までは、政府は侵害しないし、キリスト教以外の宗教の信者が不利になることは許されないのです。
キリスト教の名前を掲げる政党は、世界にたくさんあります。例えば、ドイツのキリスト教民主同盟、キリスト教社会同盟、スイスのキリスト教民主人民党、オランダのキリスト教同盟、ノルウェーのキリスト教人民党、他にもイギリスやオーストラリアや中南米などの多くの国にキリスト教民主党と呼ばれる政党が多く見られます。キリスト教によって政治的主張を掲げ、政党を組織して運動することは、世界的には全く珍しいことではありません。
アメリカの場合は、もちろん信教の自由も保証され、特定の宗教が不利な扱いを受けることがあってはならないのは当然ですし、それに加えてヨーロッパ以上に様々な民族や宗教がごったがえしているので、さすがに国教会はありません(現在は。かつて独立したばかりの頃は、州ごとに異なる国教会的な教派が存在し、アメリカにおける「政教分離」とは、州ごとの教派の自由のことを意味していた)。しかし、例えば大統領の就任式にはキリスト教の聖書が朗読されたり、同時多発テロの死者を追悼する式典では、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム含む様々な宗教の代表者が並んで参列するなど、特定の教派に肩入れする事はしなくても、宗教的な要素を決して無視せず、むしろユニヴァーサルな(包含的な)仕方で宗教性を前面に押し出しているように見えます。
つまり、日本国外を見れば、「政教分離=政治と宗教は無関係」ではなく、「政治は全ての宗教に対して公平」であることが重要視されているように思われます。決して宗教者が政治に関わりを持ってはならないというのではなく、むしろ各々の宗教の立場から考える政治的主張を積極的に行っているというのが現状です。
翻って、日本国内の状況を見ても、たとえば、およそ870万世帯とも言われる、日本最大の宗教団体である創価学会が公明党の支持母体であることは有名ですし、幸福の科学が幸福実現党から候補者を擁立しているのは公然の事実ですし、統一協会と自民党が裏でつながっていることも、知る人の間では当然視されています。神道のなかでも日本民族主義に立つ人びとは、右翼的な政治運動を活発に行っています。
ひょっとしたら、日本で「宗教が政治にタッチしてはいけない」と思っているのはクリスチャンだけで、それ以外の宗教がみんな政治に影響力を持とうとしているのに、キリスト教会だけが取り残されてしまっているのかもしれませんね。
(3)「この世的」
加えて、日本の教会でクリスチャンが政治に関心を持たない理由として、「この世的なことには関わりを持たない」という風潮があることが感じられます。
この「この世的」という言葉がどこから生まれてきたのか、私はよく知らないのですが、時々教会内で使われる言葉です。教会で「この世的」あるいは「世」と言う場合、「神の国」と「この世」を切り離す意味で使われ、「この世的なものではなく、神を見つめ、神を求め、神にしたがうこと」、「この世的なものに流されず、教会の営みに勤しむ」「この世的な欲望や願望にはとらわれない生き方」という使い方をされることがほとんどです。つまり、「この世」あるいは「世」というのは、どちらかというとネガティブな意味を持たされているのです。ですから、教会では現世利益的な願い事(商売繁盛、病気平癒など)も、煙たがられるわけです。そこには、「この世とは一線を画し、それを超越した神の国に心を寄せてゆこう」という、世俗とは距離を取ろうとする態度があります。
それ自体が良いとか悪いとかは一概には言えないのですが、このような脱世俗的な感覚な信仰を持つクリスチャンは、政治というある意味非常に「この世的」な事柄に対して、冷ややかな視線を送りがちです。ご質問にあるように、「青臭いことを言うな」という言葉尻というのは、こういう信仰から出て来ているものではないかと思います。もっと世俗的なことから離れて、そんなものを超越した神の国を求めなさいというわけです。
このような考え方が宗教の要素としてあることは否定できませんが、気をつけておかないといけないのは、「傍観者は結局加害者の加担者である」ということです。これは、いじめや暴力の現場で言われることですが、世俗の現実の世界で、いじめる者が例えば1人しかいない、いじめられている者も1人という少人数の当事者しかいない場合でも、大多数の人が自分とは関係ないとして傍観者に回ると、結局誰もいじめている者を止めることもなく、またいじめられている者を守る者もいないという意味で、結局は暴力が肯定されることになり、大多数の人間がいじめへの協力者であり、加担者であり、いじめられている者の苦しみを無視する加害者集団に成り果てるということです。
全く同じように、例えば政治権力が、庶民の生活レベルを低下させたり、個人の行動や言論の自由を制限し、弱者の発言権を奪い、徴兵制を実施し、戦争に積極的に関与する事で国民を危険に巻き込もうとしていたとしても、それを「この世的」だからといって放置することは、結局そのような政治権力の横暴に協力しているのと同じだと言っても過言ではありません。
「この世」と一線を画すということができること自体が、この世に平和が実現していることの証であり、この世の平和が崩されても「この世的なことには関わらない」と言っていると、そのような「この世」と一線を画す宗教的態度をとることさえもできなくなる、という矛盾を抱えていることを、このようなクリスチャンたちは考えなくてはいけないのではないかと思います。
▼政治への無関心
政治に対する無関心と言えば、日本人の選挙における投票率が低いのもよく知られた話なので、クリスチャンであるなしに関わらず、政治そのものに無関心であり、政治に何も期待しないという人が日本国民の中でも多数派なのでしょう。「政治」という言葉だけで、何かくだらない、どこか汚れた、どうせ政治家たちの権力争いでしかなく、我々の生活と関係がない、関わり合いにもなりたくない泥臭い世界、厄介だから関わりたくないと思う人も多いのかもしれません。
しかし、実際には私たちの生活環境を取り巻いているのは、全てが政治の結果です。
私は町内の自治会の会長をやったことがあるのでわかるのですが、例えば、町内の交差点に子どもたちの通学の安全のために反射鏡を設置してもらうだけでも、役所に陳情しないといけません。町だったら町長さん。市だったら市長さんに、陳情書を出し、場合によっては実際に出かけて行って請願するわけです。1年で実現しなかったら、来年も再来年も陳情や請願を続けるのです。政治家に動いてもらわないと、あるいは議会で承認するなり決議してもらわないと、道路の鏡1本立たないわけです。信号機とかを設置しようと思ったら、もっと大変です。
つまり、そんな身近なことも政治家が動かないと実現しない。もっと大きなこと、地域の教育のこと、経済政策のこと、外交政策のこと、軍事政策のこと、考えてみれば、そういう政治家たちの話し合いと会議における多数決の票集めで、たとえば日本の農家がものすごい損害を被って、私たちの毎日の何気ない食生活に大打撃を与えたり、あるいは逆に食糧が安くなったり、電気代が安くなっただ、高くなっただ、知らないうちにみんな体内被曝していて寿命が縮んでしまったとか、大学受験が簡単になったり難しくなったり、息子や娘が国防軍に徴兵されるようになるかならないか……そういった一大事がみんな政治に関わっているのだということを考えると、政治というのは未来の自分たちの生活を作る仕組みそのものと言えるわけです。
それに無関心でいるというのは、自分たちの未来の生活に対して無関心でいる、あるいは、無条件に安心しきっているということなのでしょう。
しかし、無関心でいたり、無条件に安心しきっていて、本当に未来の自分たち、あるいは自分の子孫たちが安全に、楽しく暮らしてゆけるかどうかという保証は全くありません。未来を安全で安心できるものにするために、普段からちゃんと政治に関心を持って、意見を持ったり、意思表示をする用意ができていないと、とんでもない世の中になってしまう可能性もあります。
ですから、クリスチャンであるなしに関わらず、日本人はもう少し、政治に関心を持ち、情報を集め、考えたほうがよいでしょう。
どの政党を支持するかというのは全く自由であるべきですが、政治にはもう少し身近なものだという意識が必要ではないかと思います。
聖書には、「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)と書いてありますから、クリスチャンが平和を実現したいと願うのは、自然なことです。しかし、平和というのは、単に精神的な安らぎ/平安のみを指すのではなく、実際に争いの無い状態のことをも指します。すなわち、平和というのは即政治の問題なのです。
ですから、政治に無関心でありながら平和を願うというのは、全く矛盾していますし、無責任と言えるでしょう。祈りが大切なのは言うまでもないことですが、「祈っておればそれでよい」というのが、本当に平和を実現しようと努力しているのか、本当に平和を実現するために役立っていることになっているのかどうかは、再検討の余地があるでしょう。
▼政治に関心を持ちましょう
というわけで、現時点での結論を申し上げますと、「クリスチャンだから共産党を支持してはいけない」、あるいは「クリスチャンは政治的なことに関わらない方がよい」と人に言われる筋合いは無い、ということです。
むしろ日本のクリスチャンはもっと政治に関心を持った方がよいというのが、iChurch.meの姿勢です。
ただし、どこの政党を支持すべきであるといったお勧めはしません。それは各個人が決めるべきことです。
ただ、「平和を実現する人々は、幸いである」と聖書が勧めていることは忘れないでいたいと思います。
最後に、第二次大戦中のドイツのルター派教会の牧師、マルティン・ニーメラーの詩を、既によく知られてはいますが、改めて思い出す意味で、ここにご紹介しておきたいと思います。
この詩には、様々な版があり、どれが本当にニーメラーのオリジナルなのかはっきりしない状況になっている(たとえば、共産主義者が強く弾圧されたマッカーシズム時代のアメリカでは「共産主義者」の文言が削除された版が出回ったりなど)のですが、現在のところよく出回っていると思われる2種類の版を紹介しておきます。それだけでも、政治に無関心なクリスチャンに対する警告にはなると思います。
▼マルティン・ニーメラーの詩(その1)
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した - しかし、それは遅すぎた
▼マルティン・ニーメラーの詩(その2)
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった
私はユダヤ人などではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
(2013年7月30日記)
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〔最終更新日:2012年10月31日〕
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